すこし日が経ってしまったのだけれど、いい経験があったので・・・。
5/10さいたま芸術劇場にて、埼玉シティバレエ団のみなさんとワークショップをした。ダンサーの方々に先生方も加わり、ふだんのバレエ練習とは少し趣向を変えた稽古をしていただく、イメージの世界に丸裸の心身を投入しなおして動きの発生やカラダとココロの戯れを純真に楽しんでいただこうかと思った。冴えた稽古、充実感を得た。
このバレエ団/教室の素晴らしいところは、何よりも現場的であることだと、スタジオに入ったとたんに感じた。通り一遍のバレエレッスンではなくて、気持ちや体を解放する方法はないかと皆で困り果てている空気があった。中心になる小池先生ご自身が、産みの苦しみをさりげなく語ってゆかれる。小池先生はバレエ団を運営しながらご自身のコンテンポラリー作品をつくってもいられるし、フェルデンクライスメソッドの伝承者でもあられる。広い視野からバレエを見つめている感じが素敵だ。失礼ながら、あっ、この人は仲間だ。と、思った。本当の踊りを探したい、開発したい。ワークショップをしながら、そんな気持ちを共有している感じがあった。
「いつも迷っている、困っているんです。「踊れば踊るほど欲しいものがどんどん増えていってね・・・。「あっ、わたしも・・・。」そんな会話から稽古は始まった。心情を分かち合うことがきちんとできれば、稽古はかなり進んだも同じだと思う。カラダを動かすということは、一緒に心を育てるということでもあるから、その場にいる人同士が互いにプラス思考になれるような空気を意識的に創るべきだと僕は思っている。日本人はとてもこれがヘタな感じもするけれど・・・。
「どんなカラダにも、どんな場所にも、可能性はあるはずなんだけど・・・」と会話が流れた。可能性ってどんな?思いがけない、自然な始まりだった。
テクニックを叩き込まれた身体、コミュニケーションを生み出そうとする気力、それでも何かが足りたない、というところから新しい挑戦が始まってゆく。
すでに身につけた技術を応用して何かを表現するのではなくて、どうしてよいのかわからないところから、気持ちの変化を自分自身の身体感覚で受け止め解き放ってゆく作業。正解は、どこにもない。痛い、という感覚からどんな動きが発生するのか。目を閉じて、見えないなかを歩むとき、どんな表情が身体からこぼれてくるのか。エトセトラ、エトセトラ・・・。
実験である、観察である。
個のベクトルを持つこと、ゼロに還ってみる踊り。バレエにどっぷり浸かっている人が、それを捨てたとき、踊りをどんなふうに楽しむのか?とても興味があった。生活記憶。これが最重要だ。「上手な踊り方」を捨てて、「リアルな踊り方」に向き合ってもらいたかった。気温のイメージ、重さの表現、歩行距離、いろんな課題を出しながら、身体の記憶を再生してゆく。真冬の立ち方と陽春の立ち方。5キログラムを持ち上げる立ち方。50キロではどうなるか。1メートルを歩く身体感覚。1キロメートルではどうか。山歩きの記憶、ころんだ記憶、寒さに凍えた肌の記憶、木の枝を裸足で踏む痛み、カミソリの山を歩くならばその痛覚は・・・。
バレリーナは人間に戻ってゆく。せっかくイマを生きているのだから、イマを生きるリアルな感情を全身全霊で解放したい。そのうえでバレエのスタイルに帰ってゆければ、様式との対話も、もっと楽しくなるんじゃないかと思う。結果すごく気持ち良い稽古になった。記憶を掘り起こし、想像力を駆使して、身体を刺激する。身体からも何かのメッセージが出てくる。受け止め、実験し、時を進める。そんな作業のなかで、アンディオールはガニ股へ、ポールドブラは胸板の露出/変容へと変化していったように思う。だんだんと「上手な」動きが「リアルな」動きに変わってゆく。色気が香ってくる。歴史や様式に保証された「身体の運用」が、私の人生をさらけ出したいという願いに裏打ちされた「身体の露出」に転換されてこそ、踊りはエロスへと向かってゆくのではないかと思いながら、稽古をつけさせていただいた気がする。なんだかもっと一緒にやりたくなった。良かったらまた呼んで下さい。まずはダンサーの皆さん、先生方、ありがとうございました!
5/10さいたま芸術劇場にて、埼玉シティバレエ団のみなさんとワークショップをした。ダンサーの方々に先生方も加わり、ふだんのバレエ練習とは少し趣向を変えた稽古をしていただく、イメージの世界に丸裸の心身を投入しなおして動きの発生やカラダとココロの戯れを純真に楽しんでいただこうかと思った。冴えた稽古、充実感を得た。
このバレエ団/教室の素晴らしいところは、何よりも現場的であることだと、スタジオに入ったとたんに感じた。通り一遍のバレエレッスンではなくて、気持ちや体を解放する方法はないかと皆で困り果てている空気があった。中心になる小池先生ご自身が、産みの苦しみをさりげなく語ってゆかれる。小池先生はバレエ団を運営しながらご自身のコンテンポラリー作品をつくってもいられるし、フェルデンクライスメソッドの伝承者でもあられる。広い視野からバレエを見つめている感じが素敵だ。失礼ながら、あっ、この人は仲間だ。と、思った。本当の踊りを探したい、開発したい。ワークショップをしながら、そんな気持ちを共有している感じがあった。
「いつも迷っている、困っているんです。「踊れば踊るほど欲しいものがどんどん増えていってね・・・。「あっ、わたしも・・・。」そんな会話から稽古は始まった。心情を分かち合うことがきちんとできれば、稽古はかなり進んだも同じだと思う。カラダを動かすということは、一緒に心を育てるということでもあるから、その場にいる人同士が互いにプラス思考になれるような空気を意識的に創るべきだと僕は思っている。日本人はとてもこれがヘタな感じもするけれど・・・。
「どんなカラダにも、どんな場所にも、可能性はあるはずなんだけど・・・」と会話が流れた。可能性ってどんな?思いがけない、自然な始まりだった。
テクニックを叩き込まれた身体、コミュニケーションを生み出そうとする気力、それでも何かが足りたない、というところから新しい挑戦が始まってゆく。
すでに身につけた技術を応用して何かを表現するのではなくて、どうしてよいのかわからないところから、気持ちの変化を自分自身の身体感覚で受け止め解き放ってゆく作業。正解は、どこにもない。痛い、という感覚からどんな動きが発生するのか。目を閉じて、見えないなかを歩むとき、どんな表情が身体からこぼれてくるのか。エトセトラ、エトセトラ・・・。
実験である、観察である。
個のベクトルを持つこと、ゼロに還ってみる踊り。バレエにどっぷり浸かっている人が、それを捨てたとき、踊りをどんなふうに楽しむのか?とても興味があった。生活記憶。これが最重要だ。「上手な踊り方」を捨てて、「リアルな踊り方」に向き合ってもらいたかった。気温のイメージ、重さの表現、歩行距離、いろんな課題を出しながら、身体の記憶を再生してゆく。真冬の立ち方と陽春の立ち方。5キログラムを持ち上げる立ち方。50キロではどうなるか。1メートルを歩く身体感覚。1キロメートルではどうか。山歩きの記憶、ころんだ記憶、寒さに凍えた肌の記憶、木の枝を裸足で踏む痛み、カミソリの山を歩くならばその痛覚は・・・。
バレリーナは人間に戻ってゆく。せっかくイマを生きているのだから、イマを生きるリアルな感情を全身全霊で解放したい。そのうえでバレエのスタイルに帰ってゆければ、様式との対話も、もっと楽しくなるんじゃないかと思う。結果すごく気持ち良い稽古になった。記憶を掘り起こし、想像力を駆使して、身体を刺激する。身体からも何かのメッセージが出てくる。受け止め、実験し、時を進める。そんな作業のなかで、アンディオールはガニ股へ、ポールドブラは胸板の露出/変容へと変化していったように思う。だんだんと「上手な」動きが「リアルな」動きに変わってゆく。色気が香ってくる。歴史や様式に保証された「身体の運用」が、私の人生をさらけ出したいという願いに裏打ちされた「身体の露出」に転換されてこそ、踊りはエロスへと向かってゆくのではないかと思いながら、稽古をつけさせていただいた気がする。なんだかもっと一緒にやりたくなった。良かったらまた呼んで下さい。まずはダンサーの皆さん、先生方、ありがとうございました!