茶事での向かい合いがうまく運ぶとき、何かしら人と人の距離が急速に接近する感じがある。ポンと置かれる器から、軸やら花から、つい先ほどまで遠くにあった時間や景色が吸い寄せられるように近づいてくるようだ。ディスタンスを急速に消し去ってしまうような秘儀が茶道にはあるように直感する。それに対して、と比較するような言い方もおかしいけれど、囲碁の対局がもつ緊迫感や時の流れは、実際にある距離がどこまでも広がって、果てしなく拡大的な時限の中にポッカリと浮かび上がるように「個」というものが屹立してゆく感じを受ける。向かい合う人と人の間に置かれた碁盤は広大であるし、その上にカツンと決められる碁石の音は切り詰められた現代音楽の一音のように長く長く響き渡る。囲碁の対局では時間が停止するほどの激しい思考の戦いがあるのだと思うから、そこに流れる時も空間もどんどん広がってゆくのだろうか。茶事とは全く別の美しい対峙感が対局の場にはあると思う。ツェ・スーメイさんという女性の作品に触れて、そんなことを思い出した。
ルクセンブルグの人、気になっていた美術家だ。水戸芸術館での展示は彼女のエッセンスが凝縮されていて、とてもおもしろい。代表作いくつもが展示される中、『名手』と題された幾つかの絵が、僕には、とりわけまぶしく心に響いた。大きなタブローに、いくつかの碁石が描かれている。川端康成の小説からのインスピレーションであるとのこと。白と黒の対置。碁盤の目は消されて、奥行きがどこまでも広い。強い音が聴こえる絵だと思った。真剣に何かと向き合うことへの果てしなさ。勝負の世界と芸術の世界が重なりあう爽快な作品だと思う。この絵を見ながら、人と人の間にある距離というものの、いかようにも味わうことができる魅力へと、思いが及んでゆく。そしていつしか思いは時間だの宇宙だのという、とても大きな命題へと遊んでゆく。ツェさんのアートには想像力がひろがってゆくことそれ自体の楽しさと恐ろしさが共存して表現されているようだ。それ自体、孤独で、イノセントで、アイロニカルで、遊びに満ちている。同時に彼女の作品の前にしばらく居ると、見る者も、すっきり「一人」になることができる。ツェさんの作品には、他者というものとワタクシなるものの距離を改めて感じさせる気配がただよっているのだ。無防備に接近してゆくこと、あえて遠さを保つこと。どの作品にも、対峙という精神が刻印されていて、その点が僕らダンサーのスタンスと近い気がする。
ダンスはいつも距離という感覚と接している。時に野蛮に、時にデリケートに、僕らは踊りながら距離と戯れ、喜んだり哀しんだりする。そして消えてゆく。そんなスピード感を絵画から感じたのは他にターナーくらいだろうか。