「ゆるやかに、
 深く、
 流れるように。

 ダンスのなかで、時間は、そんなふうにシフトしてゆく。

 爆裂するごとく、
 強靭に、
 急進的に・・・。

 そんなふうに碎けてゆくこともある。こわれても、いい。

「作品創りも、セルフトレーニングも、共通しているのはリズムやスピードのシフトチェンジだ。
踊っていると速度がわかる、重さがわかる。ただそれだけでも、生きていることの色彩は鮮やかになる。
精神が、速度や重力にさらされる。生きている、ということなのだが、それは、死にむかってゆく、という感触でもある。

「お能が好き、寺院のダッタンが好き。
時やら重さやらをたくわえて、バンバン足を踏む、あの感じが好き。
ゆるやかで、深くて、凶暴で・・・。
流れたゆたう存在がエイと踏ん張る姿、あれは一種の危機感なのかしら。
じっと眺めながら、その所作中に、
アナタはアナタ自身をちゃんと看ているんですか、というようなことが多々読み取れてしかたがない。

「クリスチャン・モルゲンシュテルンの詩に「あいだに」というのがあるが、私というものはいつも何かと何かの間で宙吊りにされているフルクサス(流動)なんだろう。流れゆくもの、変化するもの。だからこそ、いま俺は何なんだと、問わずにいられない。問い続けるしか見えてこないのが私なる観念なのか。

「時間は止めることができるのかどうか、場所とは幾つの時限を内包しているのか、私はリアルに私たりうるのか、
そんなことへの反省自問さえ、踊りの内部には用意されているようであり、
そう思えば稽古は、ひとりがひとりとしていられる、実に贅沢な時の流れなのだと思う。
私が踊るのではなくて、踊りが私を成立させるのかもしれない。

「めまぐるしく目先のことを追いかけさせようとするような時代に生きているのかもしれない、
今日一日の事や、明日の事で、気が焦ってしまうような時を過ごしてしまっているのかもしれない、
雑多なものが、雑多にあって、心の中まで雑多になって、じたばたしているのはイヤである。
システムに踊らされるか、踊りのなかでシステムを俯瞰するか。

「景気の悪いニュースが続く。社会が深刻だという。つまり、いよいよ個人の問題に入ってゆくのだろう。世界のこと、日本のこと、世代のこと、経済のこと、家族のこと、何を話しても結局は個としての強度が問われているように感じる。依存の季節は終わって、愛の季節が始まってゆくのだろう。

「尊敬する人から電話あり、田植えの季節にも踊ってみないかと。そうだ私は生きているんだ生きる者として踊るんだった、と、なぜか感無量。そう思わせる温かさが、その声にある。ありがとうございます、ごめんなさい。感謝と同時に、何かしきりに詫びている心があるのだった。緑一面、命の景色が幻視される。お母さん、お父さん・・・。

「ダンスの時間は、僕をシンプルにしてくれる。
ひとつの肉であり、ひとつの骨であり・・・、
という具合に、
ひとつの何かしらであるということ。」

※創作ノートから断片をいくつか記載した。いづれも独り言の走り書きに過ぎないが、なにかの種ではあるかと思う。どんな作品/パフォーマンスにつながってゆくのか、まだわからないけれど、発展は今後のお楽しみということでお願いします。
さて春である。どんな活動を展開するか、どんなクラス内容をプログラムするか。そろそろ方向性を打ち出さねば。
働こう!!