僕の故郷である奈良では東大寺修二会の本行が始まっているはず。厳しい行のクライマックスを経て、お水取り3/12の成就が春を告げます。東京では、まだ寒い日がありますけれど、一日一日と春が近づいている感じがします。生活もそろそろリフレッシュですね。僕も気分を新たにしたくて、ダンスをやってきて良かったこと、いっぱいのなかから少しだけ、書き留めてみました。

まずあげておきたいのは、ダンスのおかげでカラダとの対話をもらいました。カラダの状態から自己管理がわかりやすくなった気がします。いわゆる長生きとか出来るかどうかは全くわかりませんが、いま活き活きしてるかどうかについては敏感になっている感じです。カラダとココロがいつもシグナルを交わしあっている。ダンサーという仕事は経済は不安定ですが心身は安定してゆくんじゃないかしら。当たり前と言われれば、そりゃそうですが、僕の場合、もしダンスを知らなければ、カラダというものとの付き合い方は全然違ったかもしれない。

それから、精神面なのかな。ひとつの行為を続けてゆくことの良さがわかってきたことです。最初はほんの息抜きから始まった、たった一つの継続が、いつのまにか生活のあらゆることにヒントを与えてくれるようになっているような・・・。ダンスの練習を通じて肉体や心に向かい合うことで「いま一番大事なもの」というものが見えてくるような気がするのです。これはおもしろいことだなあと、最近思うのです。やはり一芸との出会いは不思議です。背後にどんな縁があるのでしょうか。

あと、いい意味で「いいかげん」になれるようになりました。万事に神経質で潔癖だったので、いつもイライラしていたんですけど、ダンスを続けているうちに「くだらないこだわり」というものも沢山あるように見えてきて、何もかも完璧にしたいというのは自己中心なんじゃないかという価値観になってきました。それで、物事を無理矢理解決しなくてもいいや、という呑気さが出てきたようです。いいかげん、とは、良い加減、です。何でも思い通りにしようとすると窮屈になります。ハプニングに満ちた複雑きわまりない宇宙というものを受容できないと、何もかも思いどうりにしたくなる。でもそうは問屋がおろさぬという代表として肉体があった。肉体というものは手がかかりますし、思いどうりになんかなってくれません。自分を甘やかしてくれない存在が、一番近いところに生きているわけです。しかも、いやでも一生つきあってゆかねばならない対象として、ごろりと存在しているのです。づっと看てゆくしかない。困ったもんですが、この肉体と言うヤツは、向き合っていると、しばしば色んなことを教えてくれるみたいです。私自身の何代も前からの歴史が凝縮しているんですもの。自分のカラダなどと言ってみても知らぬことが次から次へと出てきますし、思い通りにならぬところがまた面白い。そう思ってじっくり付き合ってゆきたいなと・・・。
まあ、こんなことを書いているといっぱい続いてゆきますが、それはこれからまた。なんか独り言みたいになってしまったかしら?