胸の奥から突き上げてくるような涙を、かろうじてこらえた。
悲しみの涙ではなかった。
誰かを抱きしめた時、抱きしめられた時、無性に泣ける。そんな涙に似ていた。

写真家・石内都さんの展覧会(目黒区美)は、どこまでも深く深く染み込んでくる温かさに満ちていた。

都市の黄昏、暮らしの痕跡、からだ、指先、肌。
眼差しの航跡を追うなかで、かすかな音でバッハのアリアが響く。
マザー、と名付けられたビデオ作品から、それはこぼれているのだが、広い会場が静まりかえった瞬間に微風のように流れて消えてゆく。
遠い子守唄を幻聴する思いで場内を歩くと、衣服やルージュの鮮やかなクローズアップが眼に飛び込む。美しい。お母さまの思い出の品々とのこと。
思えば母たちはいつも歌を唄いつないできた。その声が聞こえるようだ。
そして会場は大きな吹き抜けに至り、「ひろしま」に遺された数々の衣服が空間いっぱいに並んだ。咲き乱れる花のように・・・。
1945年あの日、それらを身につけていたであろう少女たち母たちの体温が、いま、石内さんの純白の光につつまれて、再び息をしている。いや、やわらかな光そのものとなって、新たな生を生き始めている。時を越えて、女性たちの「ひろしま」が、痛みから光に変容しながら、背を押してくれる。

あの原爆でさえ破壊することができなかったものが、あったのだと思う。
それは、「ひとの温度」だ。
温かく、哀しく、愛おしい。
そのような「気持ち」を破壊することは、いかなる暴力にも出来はしない。


人は肉体のみにて生きているのではないから、たとい命が奪われたとしても、奪い尽くせぬものがこの世に遺るのだろう。
時を刻みつづけ、喜びや悲しみを静かに伝えつづけ、失われた何かと新たに来る何かをつなぎとめてゆくエネルギーが、被爆した可憐なワンピースやブラウスや下着から放たれて、まぶしい。魂と呼ぶのかもしれない、愛と呼ぶのかもしれない。何と呼べば良いのか分からないけれど、叫びたくなるような優しさが、僕を包んでゆく。包まれながら、心の奥でただ泣いた。

どんなに大きな痛みだって、それが癒される時は必ず来るのだと思う。
そして癒されてゆく痛みは、新たな痛みを癒す光に変容してゆく。
夜の闇のあとには必ず朝の輝きがめぐってくるように。


会場の一角に、流れゆく水面のクローズアップが映し出されていた。
水は、穏やかに揺らぎながら、陽光を燦々と反射していた。

石内都展 ひろしま/ヨコスカ