「うまいから価値があるんだというような言い方、考え方はまちがいだし、危険なのです」とは、故・岡本太郎さんの言葉。美術の世界ではとっくに淘汰された価値観が、うまい・へた。しかし、踊りの世界では、まだまだ囚われている感があります。これを放棄するには、表層的な規範や競争心をすてるしかありません。不必要に他人と自分をごちゃまぜにし、ヒエラルキー(階級)を無意識につくってしまう価値観は、多様かつ複雑であるはずの人間/生命/社会を単純化し粗雑で窮屈なものにしてしまいます。心や体の解放を祈るはずのダンスが、他人に秀でるための道具に成り下がるのは悲しいことです。どんなにがんばっても、それを見せられた人は感心する人もあるでしょうが感動はしないでしょう。踊っている本人も、闘争心や競争心をモチベーションにしている限り、いつもびくびくして孤独になってゆくのではないでしょうか。そんな事を考えながら、僕はクラス活動をしています。

うまい、へた、ではない踊り。それを追求した人は、沢山いると思います。ダンスは、本質的には自由自立の衝動と関わって生まれたのですから、うまい・へた、という価値観は存在してはならないはず。では、何を・・・。ぼくの感ずるところでは「作用」です。外なるものに対して、内なるものに対して、語りかけ受け止め合い響き合おうとするエネルギーや温度がどれくらいあるのか、という価値観が大事だと思っています。そのような方向を僕に教えてくれたのがとりわけ「舞踏」と「オイリュトミー」でした。僕のダンスは、単にオリジナルなものではなく、この二つの潮流から強い影響を受けてこそ、成り立ってきたんだと思います。

カラダ、すなわち、もっと身近な自然、と交信するための踊り。それを僕は望んで探しているのだけれど、そのためには自らを見つめるヒントと、世界を見つめるヒントが必要でした。
自らを見つめるヒントを強烈に与えてくれている代表が「舞踏」であり、世界を見つめるヒントを与えてくれている代表が「オイリュトミー」です。これらを紹介する以上、僕は、ダンスを競うための道具ではなく、あくまで知性的な営み・生き生きした生活の支柱として、ワークとして、捉えてゆきたいと思います。同時に、作品も踊りという馬鹿でかい宇宙を共有するためにこそ創り続けたいと思います。

ソロ公演も終わって、新たな探索の日々。「舞踏」について、「オイリュトミー」について、稽古を進めながら、このブログでも、いろいろな思いを書いてゆきたいと思っています。