森の樹々にかこまれて、一台のグランドピアノからポ~ンと音が宙を舞いました。それを受け止めるように、すらりとした足が空気中に差し出されました。山梨・ダンス白州2008。開幕の一瞬です。
ピアノは高橋アキさん。舞は田中泯さん、このフェスティバルの現場親方です。「好きな音楽が聴こえたものですから・・・」踊り終えての一声。さらりとしたコトバが、胸を突きます。上を見ますと、樹々の深い沈黙。
僕はパートナーともども、ソロ作品で参加し、帰京したばかりです。
4度目の参加。「白州」といえば「であい」というコトバがすっと出てくるほどに、貴重な場であることに、かけがえのない場であることに、あらためて感じ入りました。
踊り、音楽、芸能、美術・・・、身体に関わる表現・ワークショップ・営みが連日の朝から晩まで、いたる場所で行われます。アーティストも観客もスタッフも、かんかん照りの村の中を汗まみれで行き交い、あいさつをしたり、立ち止まって話したり、何か一緒に働いたり。そうしながら、祭りの空気を紡ぎだしてゆく。
参加アーティーストは、自らのプログラムを上演することで、その空気を担い、次へと明け渡してゆくことになります。個々の作品を成立させつつも、より広がりのある何かに向けて身体を開け放つ。「つながり」ということも、芸の工夫や態度のひとつとして、このフェスティバルでは問われている感があります。だれかが表現して、だれかが観る。ただそれだけではなく、やはりエネルギーを交換し、つなげてゆく。ダンスとダンスが、どこかでつながり、フェスティバル自体が総体としてもう一つの大きなダンスを成している。
ダンスは、あらわれた瞬間に消滅し、けっして完結し得ないもの。そのような特性を思い出せば、このフェスティバルでさらけだされる諸相とその連関は、実に根源的な体験につながっているにちがいありません。
田中泯さんをはじめ、この地と祭りを興して来られた方々は、土を耕し、踊りを耕しながら、さらにひろがりのある無形の何かを耕して来られた、いまも続けていられる。そこに大勢の方々が無償で集まってダンス白州は開催されてきました。営みの持続とたしかさが、ひとを惹き付けて止まないのだと思います。フェスティバルも12日をもって無事終了されたとのこと。関係者の皆さん、見に来ていただいた方々、すばらしい磁場と熱を、ありがとうございました。
(ひきつづき、自身の作品について言及しますので、よろしくお願いします。)
ピアノは高橋アキさん。舞は田中泯さん、このフェスティバルの現場親方です。「好きな音楽が聴こえたものですから・・・」踊り終えての一声。さらりとしたコトバが、胸を突きます。上を見ますと、樹々の深い沈黙。
僕はパートナーともども、ソロ作品で参加し、帰京したばかりです。
4度目の参加。「白州」といえば「であい」というコトバがすっと出てくるほどに、貴重な場であることに、かけがえのない場であることに、あらためて感じ入りました。
踊り、音楽、芸能、美術・・・、身体に関わる表現・ワークショップ・営みが連日の朝から晩まで、いたる場所で行われます。アーティストも観客もスタッフも、かんかん照りの村の中を汗まみれで行き交い、あいさつをしたり、立ち止まって話したり、何か一緒に働いたり。そうしながら、祭りの空気を紡ぎだしてゆく。
参加アーティーストは、自らのプログラムを上演することで、その空気を担い、次へと明け渡してゆくことになります。個々の作品を成立させつつも、より広がりのある何かに向けて身体を開け放つ。「つながり」ということも、芸の工夫や態度のひとつとして、このフェスティバルでは問われている感があります。だれかが表現して、だれかが観る。ただそれだけではなく、やはりエネルギーを交換し、つなげてゆく。ダンスとダンスが、どこかでつながり、フェスティバル自体が総体としてもう一つの大きなダンスを成している。
ダンスは、あらわれた瞬間に消滅し、けっして完結し得ないもの。そのような特性を思い出せば、このフェスティバルでさらけだされる諸相とその連関は、実に根源的な体験につながっているにちがいありません。
田中泯さんをはじめ、この地と祭りを興して来られた方々は、土を耕し、踊りを耕しながら、さらにひろがりのある無形の何かを耕して来られた、いまも続けていられる。そこに大勢の方々が無償で集まってダンス白州は開催されてきました。営みの持続とたしかさが、ひとを惹き付けて止まないのだと思います。フェスティバルも12日をもって無事終了されたとのこと。関係者の皆さん、見に来ていただいた方々、すばらしい磁場と熱を、ありがとうございました。
(ひきつづき、自身の作品について言及しますので、よろしくお願いします。)