8月10日の白州公演にむけて、野外のダンス作品をつくっている。想定しうるものと、想定され得ないものがフーガを成すだろう作業は、構築であると同時に、すでに解体を前提としている。遊技的。
便宜的に体育館やスタジオも使うが、やはり主な構想の場所は「外」だ。さまざまな条件の中で体を動かし、身体感覚でアソビ考えるのは、おもしろい。山道、林、原っぱ、時に街角で、人ごみでも。意識を据えれば、歩くだけでも違う、手をスッと流すだけでも違うものだ。何が?足や手が呼吸する対象がだ。ときに不意打ちのように、ときにずっと過去からつながっているように、音や風景が、カラダにアプローチしてくる。それらはたいてい、観念や言語よりも素早く訪れては去ってゆく。「外側」に立つおもしろさは、対応・作用のおもしろさでもある。
劇場の仕事では、カラダを絞る。真空状態に追い込む。対して、いまやっているのは、カラダを空ける、という感じ。主体的なエネルギーをガンガンためこんで鍛えてゆくのとちがって、客体になる、どんどん影響され変化しやすくする、という感じか。軽くて、いろんな出来事にスッと寄り添ってゆけるような身体性がいいな、と思うのだ。もちろん真剣だ。自分なりにコンセプトもある。しかし、変わっていって良いのではないか、変わってしまうことさえ前提とした作りも良い、出発時点での狙いと結果のズレがあったとしても良い、変化やズレも(もしかして、それこそ)またダンスなのではないか。イメージの再生産がアートではないから。
(このような仕事から、劇場の作品の種ができることも多々あった。昨秋上演した「カラビンカ」は、深夜の森のなかで始まったし、つい先だって6月の「タブラ・ラサ」は、2001年の白州フェス『風の道を・・・』から構想がくすぶり始め05年にカタチになった。場所や時を隔てた作業が、どこかでつながり、あたらしく芽吹くものだ。)
複雑系の分野に、アフォーダンスというのがある。リアルな現象は、環境全体に作用しあいながら起きる。いや、起きる、という事自体が連続のなかの非連続的な知覚作用だということ。心はコロコロ変わりつつ定着もし堆積もするが、まさに一例か。自分のテリトリーから一歩出れば、そこには雑多なイメージがひしめき合う。影響され、ズレ、シフトする遊びを体験しながら、何かがさりげなく変わってゆく。”私”という鎧を脱げ。との声が、きこえるようだ。
便宜的に体育館やスタジオも使うが、やはり主な構想の場所は「外」だ。さまざまな条件の中で体を動かし、身体感覚でアソビ考えるのは、おもしろい。山道、林、原っぱ、時に街角で、人ごみでも。意識を据えれば、歩くだけでも違う、手をスッと流すだけでも違うものだ。何が?足や手が呼吸する対象がだ。ときに不意打ちのように、ときにずっと過去からつながっているように、音や風景が、カラダにアプローチしてくる。それらはたいてい、観念や言語よりも素早く訪れては去ってゆく。「外側」に立つおもしろさは、対応・作用のおもしろさでもある。
劇場の仕事では、カラダを絞る。真空状態に追い込む。対して、いまやっているのは、カラダを空ける、という感じ。主体的なエネルギーをガンガンためこんで鍛えてゆくのとちがって、客体になる、どんどん影響され変化しやすくする、という感じか。軽くて、いろんな出来事にスッと寄り添ってゆけるような身体性がいいな、と思うのだ。もちろん真剣だ。自分なりにコンセプトもある。しかし、変わっていって良いのではないか、変わってしまうことさえ前提とした作りも良い、出発時点での狙いと結果のズレがあったとしても良い、変化やズレも(もしかして、それこそ)またダンスなのではないか。イメージの再生産がアートではないから。
(このような仕事から、劇場の作品の種ができることも多々あった。昨秋上演した「カラビンカ」は、深夜の森のなかで始まったし、つい先だって6月の「タブラ・ラサ」は、2001年の白州フェス『風の道を・・・』から構想がくすぶり始め05年にカタチになった。場所や時を隔てた作業が、どこかでつながり、あたらしく芽吹くものだ。)
複雑系の分野に、アフォーダンスというのがある。リアルな現象は、環境全体に作用しあいながら起きる。いや、起きる、という事自体が連続のなかの非連続的な知覚作用だということ。心はコロコロ変わりつつ定着もし堆積もするが、まさに一例か。自分のテリトリーから一歩出れば、そこには雑多なイメージがひしめき合う。影響され、ズレ、シフトする遊びを体験しながら、何かがさりげなく変わってゆく。”私”という鎧を脱げ。との声が、きこえるようだ。