「我は見る、ゆえに我はある」オルハン・パムク氏の、この言葉に共感をおぼえた。(氏は2006年のノーベル文学賞受賞者。ノーベル文学賞は主体史とも言える。)

イスタンブールと東京は、共通して複雑な交差の場であるが、そのような中にあって、「見る」という存在の仕方は確かに魅力的だ。「見るために生まれてきた(ゲーテ)」にも通じる。デカルトからのシフト(思う/見る)も、またおもしろい。僕自身「思う」とか「思い」などという言葉を、習慣的に発しながら発するたびに戸惑いを感じ、「思う」踊りで失敗を繰り返し、どうやら「思い」なんて当てにならないと痛感してきたせいもあるか。

踊り子を長くやっていて、どちらかというと”do”よりも”be”に関わるイメージを販売する商いだと感じる。どうやら「見て」動いている・生きている、のだ。しかも細かく。

仕事をしていると、主体について、主体なるものの構造について、ひんぱんに考え方を整理せざるを得ない。doとbeでは目の所在が違う。それは主体の空間配置が異なるということだ。

僕は、ダンスでは肉体も自己も、つきはなすこと、別の言い方をすれば、距離をもつこと、が表現や技法の前提になると考えている。距離とはフォーカスに必要な基本条件、客体に対する「主体の目」の所在点を明らかにする条件でもある。すなわち「我」を時間空間上のどのような位置に配置するかということ。
ダンスで言う「軽やかさ」も、実は身体能力プラス見る能力だ。観察力や観察センスは、ダンスの最も基本的な技術。ディテール・速度・反応。また、踊り手は、観察するものでありながら、観察されるもの、イコール、主客相互の入れ替わりが、ダンスでは絶えず発生する。

体操をしていた頃、見る風景の変化が競技の成果に関わっていると感じた。踊りに転じてすぐ、目の前にクリアーな鏡がある、というイメージ構造を訓練したいと思う時期があった。いつしか、鏡ではなく「主体をもった複数の視野」がポリフォニックにからみあう構造を訓練したいという欲望に変化した。体操をしていた頃と変わったこと、同じ運動屋でもスポーツ選手との立場の違いを感じる点は「見る」の仕方(すなわち主体構造の組立て方)にあるのかもしれない。
ややこしいことはさておき、どんなにシンプルに考えても、なんらかの具体的な仕方で「見る」という作用を意識的に運動に取り込むことは、ダンス稽古の大きなターゲットになるし、その獲得がなければ、身体によるエクリ(ダンス表現)は困難であると僕は考えている。

「我は見る、ゆえに我はある」この言葉、現代文学からの、思いがけぬプレゼントだった。