なにげなくテレヴィをつけたら、ルオーの「ミゼレーレ」が映し出されていました。白と黒による版画、とても深いです。みつめながら、病床のIさんを思い浮かべました。Iさんは年老いた医師であり、子どもの頃からかわいがってくれた人ですが、阪神大震災での医療活動の後、過労に倒れて意識を失ったままです。何度も死線をさまよいながら、もちなおすということを繰り返していますが、意識はずっと静かなのです。Iさんは何一つ語らないし、顔も動かしません。しかし、Iさんの身体は、言葉よりも激しく厳粛に残酷に語りかけてきます。もはや何も語らぬが故に強く働きかけてくる存在。Iさんと向かい合うと、語り合うことができないが故に、僕と彼の間には無数の感覚が散りばめられ、それは病院を出た後々まで連続してゆくのです。ルオーの画面もそうです。 それがキリストであれ道化師であれ、そこに描かれているのは人物の何者であるかということとは切り離されたネイキッドな身体、いえ、対象が描かれているが故に生み出される「遠い距離」と、距離ゆえの渇仰です。いま僕は、6月に改訂上演する「TABULA RASA」という作品に取り組んでいます。大部分が激しい動きに満たされた作品ですが、それは何かを語るための動きではありません。消耗のための動きというか、動きの後に訪れる何かを欲望して、沈黙にいたるための動きを重ねてゆくのです。3年間、この作品と付き合って来れたのは、この作品が意味するためのツールではなく、意味を消すことへ、意味の抑圧から少しでも遠ざかりたいという衝動によるものだからかもしれません。