講師を委嘱されているダンス学校がある。そこで僕は、卒業制作と進級制作の指導と公演ディレクションを行っている。いわゆる創作指導。まもなく公演があり、いま追い込みの時期だ。生徒さんは18~19歳のダンサーor振付家志望者のべ80人、中国・台湾・韓国の人を含む。卒業後も長年がんばり職業舞踊家となった実績もある。各分野のダンサーが基礎部分を教え、最後に自由創作となり、僕に生徒たちが渡される。個性を引き出せ、という要請である。バレエやコンテンポラリーに限らず、ストリートがやりたい、いや前衛でありたいと言ってくる。やってみればよい。手に負えぬジャンルでも、やらせてみる。自作となれば彼らなりの美学を貫きたいのだろうから、こちらも勉強してでも付き合う。大変だが、ダンスであるなら根っこは同じなのだから、本質を押さえる気概でやる。イノチを信頼する、カラダを信頼する、この世に生まれた自分自身を信頼する。そのようなことを、しつこく言い続ける。真っ直ぐ立っているかどうか、しっかり土を踏んでいるかどうか。そのうえで初めてスタイルを探せ、と。

若さはこちらを試す。大人という存在に敏感であり、いま大人になろうとする自己にさえ、神経を逆立てる者もある、新聞などに載る大抵の問題は、ある。100人近く一緒に稽古するのだから。ダンスが「喰えない」仕事だということなど、彼らはもちろん知っていて、それでも踊る、創る。何を求めているのか。なぜ、この現在に、ダンスなのか、身体なのか。あえて、知性よりも野性を求める10代・・・。僕も、踊り続けている心情を告白することになる。

いま踊りを教えることは技術論を大きく逸脱せざるをえない。専門家である前に、まともに人間として、何かに対峙すること。ひとつの夢を追う強さ。作品を創り、稽古し、公開する、という作業を通じて、そのようなことを分かち合う作業となる。

世情、不安、社会の病さえも、もろにかぶっている10代の身心は、時に痛ましくもある。今の若者、簡単に他人の言葉は呑んでくれないが、しつこく本気で見つめれば最後はカタチにして挑んでくる。「私はこのように生きている、あなたはどう見るか」と。結局は、個人対個人、ココロ対ココロ。大なり小なり人生のこれからを賭けて、彼女たちは泣き笑い、踊る。自分の人生の幕を上げるために、踊る。不自由なく発達した身体に、渇いた心と不安な欲望が追いすがる。

ダンスとは身一つで勝負することだ。ビビるだろう、恥ずかしいだろう。しかし、それでも立つ、その自分の足で、この大地に。さて、出来る出来ないを怖れないでほしい。まわれなくともまわり、とべなくともとぶ。思いで満たせばカラダは答える。まずはトライする姿をさらすこと。ダンスは「生きている」ことを示すことから始まる。彼らと付き合いながら、僕自身、そのようなことを再び、学んでいる。