「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている」土方巽が遺した言葉だが、あらためて、いい。

記憶。

おのれのコトバを、と思って舞踏を志したものの、カラダにあれこれ指図するように踊っている、これが歯がゆく、いっそのことと身を預けた時期がある。他人のコトバにむしゃぶりついてゆくように踊る年月が、長く続いた。全身で喉になれ、全身楽器になれ。ただ響け。そのように自分に言いきかせながら、真っ白になりたいと思ったのだった。ここから始まった気がする。

言われるがままにコトバを呑み込み、出されるがままに振付けを反芻する。すべて叩き込まれたとき、はじめてカラダは踊り始めている。「からっぽに」なったからだ。コトバはカラダのなかで微塵に碎けてヤケドしそうなただの熱になっている。あれこれ考えながらひねりだしたものではなく、差し出されたものを無条件に叩き込んだところにスッとおのれが立っている。消した分だけ新しく入れ替わった自分がいた。この体験は重大だった。踊りは、肉を華やかにし、人を謙虚にする。そう思ったことを憶いだす。

とことん受け止めてゆこうとすれば、何かが、からだのなかで交差する。そこから新しい生命がはじまり、その始まりの瞬間が踊りなのではないかと思う。まさに「入れ換え」だ。

出会いはいつも目の前にある。受け止めるには、ここに居座っているカタチを外さねばならない。そこに、生々しい身体が現れるのは幸福、しかし、外そうとしても外れぬカタチもあり、屍のような貧相な身体が現れることもある。びくびくせずに向かい合うしかない。いま、そのときだ。
脚の裏には土、アタマの上には光。そのような「当たり前」が目の前に、ある。

さて、今年は・・・。