「すでに音も声も多すぎて、かえって何も聴こえないこの地上。」
以前そのように書いたが不覚、浅かった。心のありかが変わったのか、このところ色んな音が心地よい。とりわけ小さな音が、身体の中にある沈黙さえも反射してくるようで・・・。

作品と作品のあいだに、空白ともいうべき季節が来る。いまがそうだ。
舞台の目覚めがまだ残っており、それでいて新しい妄想もまだ胸を騒がせない。
身体が、ガランとした空間に投げ出された。どうして良いか無知のままにもどった身体は、快にどん欲だ。聴覚も野蛮に乾いて、響きを探している。

少し動けば、かすかに空気が震えるのがわかる。それを受ければ身体のどこかがほころび始め、動きも大きくなりたい。こわれるものがあるかもしれず、そっとそっと盗むように動き、息さえ殺す。それでも聴こえ始める音がある。身体と触れ、こすれあう床や壁。そこから生まれる「ざわめき」と「しじま」。外部から無粋に侵入する偶然とは別の、かすかだが確かな音。

カラダのほてりと混ざり合い、ほどよい湿度をもった音の粒が、霧のように細かい。ホールの高い天井をひとめぐりして身体に落ちてくる微細な音たちが、背中やこめかみを緩めてくれる。肌との接点から、物質に積もり積もった何かしらのエネルギーが分解されて散っては降る。それを浴びているような感じだ。床は樹木の、壁は鉱物の、かりそめの凍結。それらと身体がこすれ合って生み出されるこのかすかな響きは、樹木や石ころ砂粒どもからのエコーともとれる。

樹木は、ともすると何百年も生きる。石や砂粒はもっと果てなく生きる。そこからこぼれ出る響きは、気が遠くなるような時間の声のようでもある。全身で喰らうように聴く。音は運動を呼び、運動は音を生む。そのなかで、ひときわ大きな動きが出たあと、気持ちよくクタリと果てた。「しじま」が還ってくる・・・。とても深いところに到達してゆくような沈黙が、身体にひとつ溜まる。新しい記憶のはじまり。

耳をすましたくなるような静寂も身を浸したくなる響きも、関わりの果てに訪れるものなのかもしれない。心しだいで偏在するのか。内側にも、外側にも。

たびたびあるわけではない。実のところ大抵は、がさつに敗北するのだが、このような沈黙に出会いたくて、いそいそと場所に赴く日々がつながる。

古人は、石や木片を叩いたり地を踏みならしたりして、精霊の声を聴きとったのだと教わったことがある。命のつながりを確かめようとしたとか、新たな息吹を受けようとしたとか。声なき声を呼びさまして心に重ねること。

僕には精霊は聴こえない。残念だけど。
そのかわりに、たったいま身体とともにあるこの場所の、ざわめきや沈黙を聴くのだ。その繊細なダイナミクスのなかに自分の生も少しばかり関わっているということが、リアルだ。身体と空間のささやかな対話。踊りの予感・・・。
(12月20日、ひとり踊りの稽古にて)