4/6ダンスクラス、この日の稽古は、ここ数ヶ月のなかでも、非常に興味深い時間となりました。
僕が渡した「振り」とクラスメンバーの「即興」が交互に対話して、一つの音楽を踊る。与えられたカタチに生命力を与える作業と、各自の気持ちにカタチを与える作業。この両者がからみあいながら、ダンスというコミュニケーションの愉しみを味わっていこうという練習。これが、金曜日のダンスクラス今年度の内容です。
3ヶ月程かけるうち、ひとつの小さなダンス作品が出来上がり、そのプロセスから見つけた何かを種として、また新たな作品をつくる、ということを繰り返します。
クラス作品は、複雑にすることもできましょうが、いつ誰でも入ってこれるように、また、おぼえる作業よりも動きや振りを味わう作業を大事にしたいので、あえて単純な構造・おぼえやすい振付けにして、各自の即興性や関わり方の自由度をひきたてるようにしています。
上手に踊れているかどうかよりも、自分の気持ちに対して素直に体が動いているかどうか、また、体の動きに対して素直に気持ちが変化しているかどうか。すなわち、存在の仕方の柔軟性が、身体をも柔軟しなやかにしていく感じを体験してもらいたい・・・。
そのようなスタイルでやっていると、必然的に見えてくるのが、一人一人の衝動や感情の表れ方になってきます。
さて、そんな中、この日、僕が投げかけた練習テーマは「足の表情」ということでした。
僕が投げるさまざまな問いかけを踊りで受け、答えていく。
2時間の稽古の中で、メンバーひとりひとりの立ち方が変化します。
そして、必然のように顔・手・胸・背筋、すべて変化していきます。
同じ振りのなかでも、なるだけキリッと立とうという人、そっと探るように立つ人、葛藤の中で何かを求めるように立っている人・・・。
わずか数分の踊りの中で、ひとりひとりが日々の思いを行き来している。
おしまいには「なるほど、こういう背景があって、この人は、踊りを練習しているのだなあ」と、納得できました。
この感じを受けた展開が、
4/7基礎クラス。
技術的な背景も整理しておきたくて、さまざまなポーズ・運動・呼吸のもつ気分の変化を、本来、足はどのように受け止めていくのかという練習をしました。
そもそも、なぜ僕らは立つのでしょう。
なぜ、僕らは、この体に軸を求めるのでしょう。
踵を地につけた立ち方、爪先での立ち方、移動・歩行するときの足裏の変化。
これらは、単なるポジショニングではなく「かくありたい」という衝動を足裏に移し込んでいく作業です。
加えて、シュタイナーの色彩理論を気持ちの部分で反映。
天地を結ぶ生命樹としての人間、時間空間を生成する運動体としての人間。
その意志・感情が、足の踏み方に関わってくる感じがします。
普段の生活で、自分の足をじっと見つめることは少ないかもしれません。
だけど、足は実に様々な表情で僕らの生活のシーンを支えています。
生活の感情が染み付いて、誰一人として、同じ足はありません。
一歩一歩あゆんできた軌跡、たった今どういう心持ちで立っているのか。
足に気持ちが通っている時、その人は本当に自分自身と向かい合っています。
キャリアのことを「足跡」という、がんばることを「踏ん張る」とも言います。
ここぞ、という時に、僕らは足に思いを馳せるのでしょう。
以前、ひとりひとりが花のように感じる、と書いたことがあります。
この両日、その根っこが見えてきました。
地上の花以上に、その根は精妙。花はひととき咲くのですが、根は絶えることなく変化成長を続けます。
たったいまの存在の仕方、その根拠、を明らかにするのがダンスの足です。
そこに注意を向ける時、僕らは自分自身の核にも注意を向けることになります。
衝動・感情・意志。
踊ることに対して、あるいは今ここに立っていることに対して。
わずか一歩の表情から、何かだいじなものが「通じ」始めるのでしょう。
来週10日は、いよいよ「舞踏」クラスがオープン。
舞踏は、まさに足の踊り。
新たな花々の種まきが始まります。とても楽しみ!
クラス募集案内
僕が渡した「振り」とクラスメンバーの「即興」が交互に対話して、一つの音楽を踊る。与えられたカタチに生命力を与える作業と、各自の気持ちにカタチを与える作業。この両者がからみあいながら、ダンスというコミュニケーションの愉しみを味わっていこうという練習。これが、金曜日のダンスクラス今年度の内容です。
3ヶ月程かけるうち、ひとつの小さなダンス作品が出来上がり、そのプロセスから見つけた何かを種として、また新たな作品をつくる、ということを繰り返します。
クラス作品は、複雑にすることもできましょうが、いつ誰でも入ってこれるように、また、おぼえる作業よりも動きや振りを味わう作業を大事にしたいので、あえて単純な構造・おぼえやすい振付けにして、各自の即興性や関わり方の自由度をひきたてるようにしています。
上手に踊れているかどうかよりも、自分の気持ちに対して素直に体が動いているかどうか、また、体の動きに対して素直に気持ちが変化しているかどうか。すなわち、存在の仕方の柔軟性が、身体をも柔軟しなやかにしていく感じを体験してもらいたい・・・。
そのようなスタイルでやっていると、必然的に見えてくるのが、一人一人の衝動や感情の表れ方になってきます。
さて、そんな中、この日、僕が投げかけた練習テーマは「足の表情」ということでした。
僕が投げるさまざまな問いかけを踊りで受け、答えていく。
2時間の稽古の中で、メンバーひとりひとりの立ち方が変化します。
そして、必然のように顔・手・胸・背筋、すべて変化していきます。
同じ振りのなかでも、なるだけキリッと立とうという人、そっと探るように立つ人、葛藤の中で何かを求めるように立っている人・・・。
わずか数分の踊りの中で、ひとりひとりが日々の思いを行き来している。
おしまいには「なるほど、こういう背景があって、この人は、踊りを練習しているのだなあ」と、納得できました。
この感じを受けた展開が、
4/7基礎クラス。
技術的な背景も整理しておきたくて、さまざまなポーズ・運動・呼吸のもつ気分の変化を、本来、足はどのように受け止めていくのかという練習をしました。
そもそも、なぜ僕らは立つのでしょう。
なぜ、僕らは、この体に軸を求めるのでしょう。
踵を地につけた立ち方、爪先での立ち方、移動・歩行するときの足裏の変化。
これらは、単なるポジショニングではなく「かくありたい」という衝動を足裏に移し込んでいく作業です。
加えて、シュタイナーの色彩理論を気持ちの部分で反映。
天地を結ぶ生命樹としての人間、時間空間を生成する運動体としての人間。
その意志・感情が、足の踏み方に関わってくる感じがします。
普段の生活で、自分の足をじっと見つめることは少ないかもしれません。
だけど、足は実に様々な表情で僕らの生活のシーンを支えています。
生活の感情が染み付いて、誰一人として、同じ足はありません。
一歩一歩あゆんできた軌跡、たった今どういう心持ちで立っているのか。
足に気持ちが通っている時、その人は本当に自分自身と向かい合っています。
キャリアのことを「足跡」という、がんばることを「踏ん張る」とも言います。
ここぞ、という時に、僕らは足に思いを馳せるのでしょう。
以前、ひとりひとりが花のように感じる、と書いたことがあります。
この両日、その根っこが見えてきました。
地上の花以上に、その根は精妙。花はひととき咲くのですが、根は絶えることなく変化成長を続けます。
たったいまの存在の仕方、その根拠、を明らかにするのがダンスの足です。
そこに注意を向ける時、僕らは自分自身の核にも注意を向けることになります。
衝動・感情・意志。
踊ることに対して、あるいは今ここに立っていることに対して。
わずか一歩の表情から、何かだいじなものが「通じ」始めるのでしょう。
来週10日は、いよいよ「舞踏」クラスがオープン。
舞踏は、まさに足の踊り。
新たな花々の種まきが始まります。とても楽しみ!
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