強風に桜が散る。
舞い散る花弁も美しいが、眼を移せばゆるがぬ樹木の美、風情なおさらである。
クラスが終わり、夜道走るなかで・・・。

今日のクラス、ある動きを全員が出来るようになった。
手を地につけ、まっすぐに体を伸ばす。腕立てと言えばそれまで。
しかし、がむしゃらにやれば地にしがみつくようになり、身はすくんだ様相、優雅を欠く。バランス・根拠・誠意をこめれば「気」が宿り、風情が出る。
ポーズが、「振り」として成立する。これが、皆で出来た。
なんとも小さな一歩だが、肉体がニュアンスを獲得する、その瞬間の偉大さ。
紙一枚の進歩を評価できぬ感性は、寂しい。

ともかく、「出来ない」が長く続いたある日、呪縛が溶けたように「出来る」が訪れて、一皮むける。
小さな一歩を重ねること。
それを信じていければ、人間は、変わることが出来る。

さて、

作品をつくっている。
企画を起こす前の、試行錯誤の段階。
良かったこと。心配なこと。
おそらくは、また始まる一日。
あたりまえの、出来事をひとり踊る。
踊ることで、余分を削る。
線路を引く作業である。
心身にはキツイ。
これが日常。もっとも大きなテーマ。
そのなかで、手応えあるバトンを渡せるか、どうか。
作品もクラスも、僕なりのバトン。

日没と日の出が、背中に降り積もってきている。沢山。
その重さ、とっさに愛おしくなる。
ゆっくりと命が終わっていく。

ところで、

過日、「大野一雄」の映画が公開されている。と知り、闇に座った。
稽古場が映る。
実は、たった数回、おじゃましたことがある。
矍鑠としておられた頃だったが・・・。
当時、映像の仕事をしていた僕は、ある企画のスタッフの一人だった。
自分がダンス修行をしていることなど、特別話さなかったが、諭すように語りかけて下さり、その時のわずかな身振りが今も脳裏を離れない。
ありがとう、といって踊られた。
瘡蓋がとれるような思いをした記憶。

僕の先生の、先生である。その先生として、マリー・ヴィグマンがいるとのこと。

ヴィグマンといえば、魔女の踊り。
起伏あるキャリアなれど、ヒトラーの闇のさなか、自らの天才を踊りきった人。
その記録を観て、心決まった部分がある。

仮面舞踊だったが、仮面の下の「人間の顔」が見えた。
輝く胸、しかし爪先が悲しい。こうやって歩いていくのか。
能の対極と感じた。
霊魂を踊るのではなく、あえて人間を踊る。
泥まみれの姿を、霊魂に差し出す。

ドイツ表現派と呼ばれている、モダンダンスの始祖と呼ばれている。
どうなのか。
僕が観たのは、そんなことよりもっと具体的なもの。
凛々とした「個」の踊りだった。
ここに、一人の人間が在る。その強度、樹木のごとし。
こう、ありたい・・・。

その思いが、土壌となっている。

さまざま、つながっている。

大野先生は100才になられた。
100年かけて、何かをつないでいくのか。
他人の話ではない。

人間、つなぐものが出来るまでは、死ねない。

(つれづれ綴るうち、文体が変わってしまいました。悪しからず。)