ダンスクラスでは1時間の基礎稽古(この日は重心移動・背筋立て・跳躍の技法)に続いて、皆で持ち寄った音楽を浴びながら即興練習。基礎クラスでは、身体操作の初歩おさらいの後、足さばきや身の返しを練習。いづれも楽しい雰囲気なのですが、今年の稽古修めということもあってか、両日とも非常に集中した動きが展開されました。良かったのは、何よりも誰一人練習を「流して」いないこと。きちんと「つまづき」をさらけだしながらも個々のからだと時の共有を楽しんでいる状況。活き活きした瞬間を求めて、ただ「熱心」というよりも、「真剣」な風景が感じられ、僕もやりがいを強く感じました。
そんな空気の中で、以前書きとめてあった文章を思い出したので、以下に記しておこうと思います。


肉体は精神の杖、精神は肉体の杖。そんなことを、思う。

肉体の記憶を追う。生まれた、その時、どんなふうに光はあったのか、気候は、気温は、湿度は、それらを、どんなふうに受けとめることで、この世の生活が始まっていったのだろうか。光は眩しかったのだろうか、それはどちらの方向から射していたのだろうか。どんな音がしていたのだろうか、どんな声が響いていたのだろうか。

肉体は自然のものである。それは制度化することが出来ない。肉体と接する限り、私たちは自然の法則を呑まねばならない。しかし、「自然界の全てが真理を顕している。私たちにそれを見る目がありさえすれば(ゲーテ)」という言葉を思い出すならば、私たちは肉体をリアルに感じとることによって、外界と内界に開け放たれているコレスポンダンスそのものになりうるのではないだろうか。

肉体・魂・知、それらを見つめている自我。絶えず動き続けるこれらの関係を「私」と呼ぶならば、これらが機能的に分断される状況は「私」の喪失につながりかねない状況である。

「活き活きとする」。ただ、その一言のために、私たちが行っているさまざまな努力は、計り知れない。

 フーコーは、高度な資本主義化のなかで、また、巧妙に仕組まれる欲望装置のなかで、私たちは衣食住を、そして生命原理としての性さえをも、社会システムに統括されているという。
 「テレビを捨てる」。シュタイナー教育を実践する上で、必ずといっていいほど各家庭が出会う、この暗示的な選択肢は、そうした状況に対する、一つの態度表明でもある。排除ととらえるか、意識化ととらえるかは別の議論としても、それは、日常の核としての家庭で、あくまで生身の人間同士のあいだで活性化される感情や思考の交流をその中心に置くこと、あるいは社会情報から一歩身を引いた場所を日常の場とする=白紙の私に還る場所をもつことで、個人の立脚点をたえず確認し、無意識下の被支配状況を脱していくことにつながるのではないか。いや、家庭でなくともよいのだ。人間には絶えず何ものにも邪魔されない、還っていく場所や時が必要なのではないか。「活き活きとする」とは、そのようなところに還ってきた実感、個の内部で静かに燃える自我の炎と、それを確かに受け入れている祭壇としての身体を感じとっている状況ではないか、と、僕は思う。


なんだか硬い文章なのですが・・・・。
「還っていくところは個の肉体」以前もそんな趣旨のことを、書いた(クラスだより4月第3週)のですが、いま稽古を通じて、あらためて思うのです。やはり、目の前にある体へのまなざしが、あらゆるものごとへの接し方につながっていくのではないか、と。


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