秋の終わり、金沢にてゲルハルト・リヒターのグレー(おそらくは鏡面界への門であったか・・・)に言いしれぬ味わいを感じ、あれは何だったんだろうと思うままに時を経て、先日リ・ウーファン(李禹煥)氏の大規模な展覧会(横浜美術館)に接しました。リヒター芸術のことは後日書くとして、今日は李禹煥展の感想を。
李禹煥氏は、1936年韓国に生まれ、1956年以降日本に定住した美術家。日大哲学科でハイデッカーやニーチェなどの西洋思想研究をへて、1960年代末期から、いわゆる「もの派」中核を形成、70年代以降は「点より」、「線より」など平面へと作品を拡げた、現代屈指の巨匠です。
僕もこれまで何度となく氏の作品に接し、瞠目し続けてきた一人なのですが、今回の展覧会は会場すべてが氏の世界で統一され、震え上がるほどの体験が得られ、今後ずっと魂の奥で響き続けるであろう貴重な一日となりました。
巨石と鉄板が真っ青な冬空に屹立するエントランスから会場に入ると、むきだしにされた床と純白の壁面が拡がる空間。そこに、氏の作品群が、時に突き刺さるように点在しています。
純白、おそらくは最も形而上な色彩、そのなかにぽつりとグレーの筆跡=身体の痕跡が印されているその作品の一つに近づいてみると、そこにはさらに無数の粒子のうごめきが見られます。
イマジネーションと行為、行為と物質、物質と時空、
あらゆる方向に開け放たれた、グレー。
灰の色、確かにそこにあった火、なおもあり続ける固体の残照・・・。
そこに現れるのは、明快な答えではなく、問いかけの連鎖。
光でも闇でもない、存在と非存在のあいだにある、動き、あるいは響き。
そういえば、石は灰色に満たされているのですが・・・。
生きているのか、死んでいるのか、そのどちらでもない静謐さ
しかし確かさをたたえながら・・・。
石、鉄板、そして灰色の鮮烈な筆跡。
それらは、既に此処にはない炎の痕跡のようにも、未来に湧き出づる泉の予感にも感ぜられるような、恐るべき強度の作品たち。
すべては関係そのものである個の肉体から。
これら、行為において熱化され、祝福を受けた物質たちによる繊細なユニゾンとも言えるような展示空間に立つと、眩暈さえ覚えます。
無の表象のうちに在ることの確かさを予感し、ただ立ち尽くしているそのことの感受をもって、新たな問いを待つ至福。
すぐれた芸術のもつ、限りない未知性のまえで、私は至福の沈黙を味わいました。
沈黙・・・天使の降りてくる場所。
あえてこの時代に生きることを選んだ贅沢を、あらためて感じた思いです。
李禹煥氏は、1936年韓国に生まれ、1956年以降日本に定住した美術家。日大哲学科でハイデッカーやニーチェなどの西洋思想研究をへて、1960年代末期から、いわゆる「もの派」中核を形成、70年代以降は「点より」、「線より」など平面へと作品を拡げた、現代屈指の巨匠です。
僕もこれまで何度となく氏の作品に接し、瞠目し続けてきた一人なのですが、今回の展覧会は会場すべてが氏の世界で統一され、震え上がるほどの体験が得られ、今後ずっと魂の奥で響き続けるであろう貴重な一日となりました。
巨石と鉄板が真っ青な冬空に屹立するエントランスから会場に入ると、むきだしにされた床と純白の壁面が拡がる空間。そこに、氏の作品群が、時に突き刺さるように点在しています。
純白、おそらくは最も形而上な色彩、そのなかにぽつりとグレーの筆跡=身体の痕跡が印されているその作品の一つに近づいてみると、そこにはさらに無数の粒子のうごめきが見られます。
イマジネーションと行為、行為と物質、物質と時空、
あらゆる方向に開け放たれた、グレー。
灰の色、確かにそこにあった火、なおもあり続ける固体の残照・・・。
そこに現れるのは、明快な答えではなく、問いかけの連鎖。
光でも闇でもない、存在と非存在のあいだにある、動き、あるいは響き。
そういえば、石は灰色に満たされているのですが・・・。
生きているのか、死んでいるのか、そのどちらでもない静謐さ
しかし確かさをたたえながら・・・。
石、鉄板、そして灰色の鮮烈な筆跡。
それらは、既に此処にはない炎の痕跡のようにも、未来に湧き出づる泉の予感にも感ぜられるような、恐るべき強度の作品たち。
すべては関係そのものである個の肉体から。
これら、行為において熱化され、祝福を受けた物質たちによる繊細なユニゾンとも言えるような展示空間に立つと、眩暈さえ覚えます。
無の表象のうちに在ることの確かさを予感し、ただ立ち尽くしているそのことの感受をもって、新たな問いを待つ至福。
すぐれた芸術のもつ、限りない未知性のまえで、私は至福の沈黙を味わいました。
沈黙・・・天使の降りてくる場所。
あえてこの時代に生きることを選んだ贅沢を、あらためて感じた思いです。