作品を創っている。矛盾するようだが、「つくる」というよりは、「消す」という言葉の方がふさわしいかもしれない。さまざまな想念をかなぐり捨てるように踊る。動くことによって、こそげ落とし削りこんでいくような稽古。何かが見え始めるまで・・・。そして、焼けるような稽古場を出たあと、一枚の絵を、見つめている。この絵から、僕はしばしば励ましをいただく。エゴン・シーレの家族像だ。
 縦の構図の内に画家自身とその妻が、いずれも裸体をさらし、その下部には、まだ生まれていない、想像上の幼い息子が着衣で遊ぶ。その肉体の持てる危うさと絶望的なまなざしのこの3人を、画面の奥で結びつけている一本の柱/垂線。そこに、僕は瞠目する。
 垂線、それはダンサーにとって不断のテーマだ。ダンサーはいつも背後に死者の堆積を、そして目の前に未出現の赤子を抱え、慄然と背筋を正さずにはいられない。そんな心地に、この絵は似ている。
 この絵が描かれた後、妻に次いで画家本人も別世界へ旅立った事をおもえば、ここに描かれた子どもは結局生まれることはなかった。しかし、シーレが、最後の最後に描いたことによって、この子は、芸術の力を体現する天使として、受肉した。この絵は、シーレと妻の共同作品とも感じられる。生身の子を成すように、ともに行為したのではないか。画家も妻も、死を予感してタブローに身をさらしたのではないか。いや、実のところ、ずっとそうしてきたのであろう、その極としての姿が、ここに天使と共に焼き付けられている。作品とは、いのちを分かつこと、世にないものの受肉をいう。

 生ある限り作品を作り続ける、という、芸術家の「さが」をそのまま形にしたような凄みを、この絵は放っている。その根底にあるのは、生活の力と芸術の接合点だ。
 生活とは失敗の連続だ。いつも転んでは起きあがる。ダンスに似ている。描いても描ききれぬ、絵描きの勢いにも似ている。
 転びながら過去を受けとめ、意志の力で変容させながら、新しい時間に結びつけていく。ただ生きているだけの人がいるだろうか。生きるということばの下に、わたしたちが知らず知らず行っているのは、「つなげていく」という行為、たえず身を削って何かを創る。そうしながら、枯れていく。そして何かを「つなげていく」。それが生活の力だと、この絵の奥で、一本の垂線が語りかけているように思う。