芦別で過ごした小学校時代、今思えばあまり同調圧力は感じてなかった。生徒数の減少により1クラスであったことや、後で知ったことだが、空知の教育委員会から当時としては珍しい自主性を育成する指定校だったことも影響あるだろう。もちろん守るべきルールの大事さも尊ぶべき思いやりも教えてもらったつもりだった。北広島の中学校に転向してきた。親世代のニュータウンで移民のまち。当時の印象はお互いにあまり干渉しない大人な文化。芦別では珍しい共働き家庭。権力とお金を持つ暮らし豊かな子供たち。

ある日担任の女性教師に放課後呼び出された。あきらかに生徒を指導するような場所ではない薄暗い何かの準備室。

「私の何が気に食わないの!?」

唐突な予想もしてない問いかけ。
もちろん嫌いだったわけでも好きだったわけでもなく無関心。興味のないただの大人だった。
自覚も何もしていない中で理不尽な説教。
日はすっかり落ちて暗くなっても電気のつかない準備室。

芦別では見たことがない、理解できない人間と過ごした理解できない時間だった。

すっかり遅くなり家に帰ると父の入院を聞かされた。食卓の上には割引シールの貼られたAコープの弁当が載っていた。準備室のように家も暗かった。
理科の授業で月が動く原理を初めて知った。
それまで月は追いかけてくるものだと思ってた。

いづみ湯を出て石岡商店までの間、月を見上げながら自転車で競争。石岡商店の自販機でアクエリアスを堪能し、自宅までまた月と競争。今日こそはと思っても、永昌寺を過ぎた角を曲がるといつも家の上で何事もなく光っていた月。

「今日も負けた。」

悔しいわけではないが負に落ちない。
勝てる方法はないのか?

ある日、理科のムヤ先生によると、そもそも月は追いかけていなかった。月は勝負すらしていなかった。あんなに自転車こいだのに。途中でゲータレードまで飲んだのに。

授業を終え家に帰れば時代劇。
カンカイと絨毯の上に無造作に置かれた甲類焼酎の大きな瓶とロックグラスと父の背中。
硬いカンカイが父の歯と手でどんどん食べやすい大きさに割かれていく。
母に甘える弟の声。
刀と刀がぶつかる音。
鍋で何かが煮える音。

そろそろ月がやってくる。

最近、「壁」だと思ってたことが実は壁じゃなかった、という認識をよくします。

 

「○○が気にくわない」

「○○さえなければ良い」

「どうして俺だけ○○なんだ」

等々

 

これらは大概目の前の障害を乗り越える努力をしたくない言い訳でしかなかった、と。

この「○○」を壁と認識することで言い訳をする醜い自分を正当化してきたんだと思います。

 

なぜそういう風に考えられるようになったのか、、、

 

自分の場合は、今まで感じてきた壁の数よりも、新たに感じてる充実感が勝ってきたんだと思ってます。

 

具体的に申し上げますと、

例えばいかにも小さいころから両親がいて、いつも朝食があって、いつも夕食があって、家には車があって、行事はそれなりにやって、誕生日にお祝いしてもらって、嵐の日の登校は車なんかのお迎えで、それなりにどこかに連れてってもらい、それなりに習い事もして、思春期から成人頃には金銭的なバックアップもあり、社会に出てもなんら危機感を持たず、弱音を吐き、痛がりで、我慢弱く、楽な道ばかりを選択したがる人間と接触したとき、

 

「おめでたいヤツだな」

 

と思い、そういった人間を見下し、無意識化ではうらやましく思ってきました。

 

ところが、最近はというと、「今日死んでも後悔しない人生」をしてから、とにかく、とにかく時間がないんです。

他人を見下したり、妬んだり、「おめでたいヤツだな」と思う時間も惜しく、今日死んでも後悔しないための目標に向けた努力にその時間を費やしたくなり、その結果細かな成功体験の積み重ね、例えば上質な食事、上質なサービス、旅行、さらに大きく人生における発見、再認識、視野の拡張などが得られて、結果「壁」だと思ったことが実は「糧」として感じられたりしてます。

 

小学生の頃、今は無い「芦別市立緑ヶ丘小学校」で今は亡き辻先生に育まれた「自由な自己実現」の作用が大きいと思います。

ステレオタイプに留まらないゴール設定ができることは私にとって貴重なアイデンティティであり財産です。

 

毎日後悔しないで死ぬつもりで必死になりふり構わず生きてみた結果、どんな人生になるか、楽しみです。

(とはいっても中々困難は尽きませんが…)

 

壁は家を守り、支えるものですので、今まで当たり散らしてきた「壁」には懺悔の念を込めて大歓迎の姿勢で生きたいと思います。

めんそーれ!