今回は、いつもと風向きを変えた、音色のちがう話。
高額のセミナー代金を支払ったからといって、その高額の支払いのおかげで、なにかすぐれた内容を学べる、という意味では、まったくない。なぜなら、あなたが学びたいその内容は、ほんとうは、あなた自身の『内界』に由来しており、『外界』における金銭授受は、じつは、まったく、無関係だからだ。
ここまでは、いつもの話。
ところで。払ったお金は、返ってこない。
それでいて、セミナー自体の内容が無意味で無価値なら、そのお金は、まさに『ドブに捨てた』ようなものだが、なぜ、そのようなお金の使い方をしてしまうのかといえば、片方には、いわゆる劣等感、無力感、コンプレックスなどといわれるものがあり、もう片方には―――。
いや、そのまえに。
大金を払ったわりには、得られるものは、なにもなかった。一方的に自分だけ損をさせられた。その意味では、たしかに『お金をドブに捨てたようなもの』だが。実際には、そのお金は、廃棄物として処理されたわけではなく、相手方に、渡っている。
あらゆる商品売買において、かならず吟味され検証されるはずの、『商品の金額と中身が釣り合っているか』という部分が、なぜか『値段が高額である以上、中身も高級であるはずだ』という形にすり替えられてしまう、セミナーという業態は、なんとも不可解で不可思議、摩訶不思議なものであると言えるが。
もしもあなたが、過去に高額セミナーに参加していて、
「そのわりに、得るものは、なにもなかった。」という経験をお持ちなら。
こんなふうに、考えてみてほしい。
名目こそセミナー代金ではあれど、実際には、
わたしは、それだけの金額を、寄附したのだ、と。
セミナーそのものの内容が無意味で無価値であればあるほど、
相手方は、なにも提供することなくお金だけを得たことになり、(不労所得を得ることの是非については、ここでは、触れない。)
一方のあなたは、無償でお金だけを提供したことになる。
寄附をする、ことの意義については、宗教団体、宗教家だけでなく、自己啓発&成功哲学業界や、精神世界オカルトスピリチュアル方面でも、さんざん語りつくされていると言えるが、同時に、
『見返りを求めているうちは、寄附などしても、意味がない。』
という話も、かならず、ついてくる。どの方面からも、異口同音に。
要約すれば、
『見返りを求めて寄附などしても、見返りは決して得られないが、見返りを求めることなく寄附をすれば、絶大なる見返りがある。』
という、禅問答のような話になってしまうのだが。
いかがだろうか?
『そこには、きっと、なにかがあるはずだ、と信じて高額のセミナーに参加してみたものの、実際には、なにも得られなかった。』
もしかしたら、そのような体験を、あなたは何度も繰り返したかもしれない。そのうえで、とつぜん、あなたが求めているそれは、あなた自身の『内界』に属しており、『外界』からは決して得られるはずのないものだ、という事実が明かされる。
すると、どうだろう?
それは、もとから、そこには、存在しなかった、ということになる。
セミナー会社がどこで、講師がだれで、という話とは一切関係なく。受講態度が熱意が情熱が、という話とは、一切関係なく。
どう転んでも、そこには存在するはずのないものを探し求めて、そのためにお金を払っていたのだ、ということになる。
『見返り』であるはずの、それは、そもそも、そこには、ない。
それにもかかわらず、お金は、たしかに支払われていた。
これが寄附でなくて、何であろうか。
見返りもなく寄附すること、でなくて、何であろうか??
わたし独自の見解によれば、見返り要素のない、純然たる『寄附』が成立するための条件は、意外なようだが、『だれでもよかったんだ』と寄附した本人が、気づくこと。渡した団体(セミナー会社)がどうの、ではなく、わたしはとにかく、お金を差し出したかったんだ。受け取ってくれさえすれば、相手は、だれでも、よかったんだ。と、寄附した本人が、自覚すること。
事実、この場合でいえば、高額なセミナーに参加を検討するにあたって、そのセミナーについての、いちばん確定的な情報は、
『このセミナーは高額である。』ということなのだから、それでも参加を決意したのは、『なぜなら、とにかくお金を支払いたかったからだ。』という答えになる。たとえ、その時点では無自覚だったにせよ。
そうして。そのような高額なセミナーに魅かれてしまうあなたの背景には、片方には、劣等感や無力感、焦燥感や、このままでは、いけないという気持ち、などがあり―――。
もう片方には、金額をつうじて表現された、自己愛がある。
そう。 それは、自己愛なのだ。
片方に、劣等感や無力感、焦燥感などがあるからこそ、
『支払う金額の大きさ』という形でしか表現され得なかった、それでも、れっきとした、『かけがえのない、自分自身』への愛が、そこにある。 そのことを、自覚してみてほしい。
セミナーでなくても、話は同じだ。
ホストクラブやエステや高級ブランド、男に貢ぐ、などでも。
あなたは、よもや自分自身そのものに価値があるとは信じておらず、でも、お金には、無条件に価値があると、信じていた。
だからこそ、その無条件に価値のあるお金を『自分自身のために』支払うことによって、自分自身の愛を表現していたのだ。
金額の高さが、そのまま、自分自身への愛の証明。
『かけがえのない、わたし自身』への、愛の証明。
だって、お金には、無条件に価値があるから―――。
あなたがそのかけがえのないお金を差し出した当の相手は、あなたに正当な代価を支払うことなく、ただ、お金だけを、持ち去ってしまった。だが、それは、かならず、そうなるのだ。
なぜなら、『外界には、なにもない』から。
だからこそ、恨むことなく、悔いることもせず、ただ『寄附をした』のだと、考えよう。あなたは、なにかを購入するための代価ではなく、ただ、お金を、差し出したのだ。
決して安くはないその金額を、ただ、無条件に、差し出したのだ。
だれに?
―――『かけがえのない、わたし自身』に!!
わたしはわたし自身を愛していて、だからこそ無条件に価値のある、お金なるものを、無条件に、わたし自身へと、差し出したのだ。
可能なかぎり、高い金額で。
生活を圧迫させて(ときには破綻させて)まで。
およそまともではない、尋常ならざるバカ高い金額を、
『どうしても、支払わずには、いられなかった』過去の自分が、そうすることによって、なにを求め、なにを得ようとしていたのか理解できれば、あなたの幻影は、砕け散る。
いままでに支払いつづけてきた、
その金額の高さが、そっくりそのまま、愛の深さの証明だ。
『わたしは、わたしを、愛している。たとえその身が滅びようとも意に介さぬほど深く―――。』
これが、あなた自身の『内面の真実』だ。
この事実に直面し、震撼し、畏怖させられ―――。
ついに、それを、受け入れることができたとき。
あなたは、内面の奥底にいる、ほんとうの自分と結びつき。
ほんとうの自分自身として、ふたたびめざめる。
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