2011年9月29日(木)の記事を転載
※この記事は文字数制限のため元記事を2分割し投稿しています。この記事は前半です。

金持ちでも貧乏人でも強い者でも弱い者でも、 遊んで暮らしている市民はみんな詐欺師だ。
(ジャン=ジャック・ルソー 1712-1778 スイス生まれの哲学者・政治思想家・教育思想家・作家・作曲家)
そうかもしれない。しかし彼らもまた騙されている。まるで地上生活(現世)がすべてであるかのように。
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
(マタイ16:26 口語訳)

それから、イエスは弟子たちに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』
(マタイ19;23,24)

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
(詩篇49:16,17)

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。
(ルカ12:15)

私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
(Ⅰテモテ6:7-11)

この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
(Ⅰテモテ6:17-19)


何百万もの富を築いたが、私はそれで幸せを得ることはなかった。
(ジョン・D・ロックフェラー)
ジョン・D・ロックフェラーは歴史上最高の金持ちの一人であった。ロックフェラーが死んだとき、ある人が担当の会計士に尋ねた。

「ロックフェラー氏はどのくらいお金を残したのですか?」

会計士の答えはとても古典的だった。

「全部残していきました。」

私たちは何一つ持っていけない。


史上最高の金持ちソロモン王のことば

自分を富まそうと寄るべのない者をしいたげる人、富む人に与える者は、必ず乏しくなる。
(箴言22:16)

しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
(伝道者の書2:11)
前回パナソニックの創業者松下幸之助のことを記事にした。彼は一生で約5000億円の資産を稼いだと言われる。今回は彼がその足元にも及ばない資産家らのことを少し書くことにする。ちなみに松下幸之助の資産管理会社「松下興産」は大型リゾート開発に失敗するなどし、現在はすでに解散している。


◆『ゲイツ氏首位、投資家ソロス氏はトップ10入り 米長者番付』
(CNN 2011年9月22日)「MGF牧仕のキリストバカ一代」補完ブログ-110929a


ニューヨーク(CNNMoney) 米誌フォーブズが発表した米国の長者番付最新版は、マイクロソフト創業者で慈善事業家のビル・ゲイツ氏が首位を守った。2位は著名投資家のウォーレン・バフェット氏だった。

個人資産総額はゲイツ氏が590億ドル(約4兆5000億円)、バフェット氏が390億ドル(約3兆円)。バフェット氏は投資会社バークシャー・ハサウェイの最高経営責任者(CEO)を務め、ゲイツ氏が運営する慈善財団に多額の寄付をしている。

このほか著名投資家のジョージ・ソロス氏が初めてトップ10にランク入りし、資産総額220億ドルで7位につけた。同氏はオープン・ソサエティ財団の創始者。

上位400人の富豪ランキングに初登場したのは18人。インターネットを使った音楽サービスの草分けで大手交流サイト「フェイスブック」の創設にもかかわったショーン・パーカー氏(200位)、米大リーグ球団ボストン・レッドソックスのオーナー、ジョン・ヘンリー氏(375位)などの顔ぶれが加わった。

<引用以上>

ビル・ゲイツがあるハイスクールでスピーチをした、「学校では教えてくれない人生に役立つ11のルール」というものがインターネットで出回っている。実際は彼自身の言葉ではなく、彼が抜粋でチャールズ・J・サイクスの著書「Dumbing Down Our Kids」から引用したものだが、最近私が本ブログでテーマとした「甘ちゃん」に関係する内容なのでついでに紹介しておきたい。

1.人生は公平ではない。それに慣れよ。

2.世界は君の自尊心を気にかけてはくれない。君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している。

3.高校を出てすぐ6万ドルの年収を稼ぎはしない。携帯電話(当時は高かった)を持った副社長にもならない。自分で両方を稼ぎ出すまでは。

4.先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。

5.ハンバーガーを引っくり返すということは沽券(こけん)にかかわることではない。君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。それはチャンスと呼ばれた。

6.君が失敗したらそれは両親のせいではない。文句を言わずに学べ。

7.君らが生まれる前は、君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった。そんな風になったのは、君らのために支払いをし、服を洗い、君らがどんなにいけてるか、という自慢を聞いているうちにそうなったのだ。親の時代から生存する寄生虫から森を守る前に、自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう。

8.学校は勝者・敗者を決めなくなったかもしれないが、人生は違う。学校によっては君が落ちこぼれないようにしてくれたり、正しい答えが導き出せるまで、何度でも機会をくれる。実際の人生とは全く似ても似つかない。

9.人生は学期ごとに分けられていない。夏休みは無いし、ほとんどの雇用主は君が自分を見出すことに興味を持たない。それは自分の時間にやれ。

10.テレビは本当の人生ではない。 現実では、人は喫茶店にいつまでもいられるわけはなく、仕事に行かなくてはいけないのだ。

11.オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。

以上

(確かにビル・ゲイツは成功したコンピューター・オタクだと言える。)

これらはアメリカの子ども向けのアドバイス(訓戒)だが、その大半は日本でも通用するだろう。子どもは世の中を甘く見ている。子どもだから仕方がないところもあるが、大人になっても未だ非現実的な甘い幻想を抱き続けている人がいる。驚くことにキリスト信者を標榜する者の中にも大人になりきれない子どもがいることは本ブログで最近取り上げたばかりである。

※チャールズ・J・サイクス
著書に『A Nation of Victims』『Dumbing Down Our Kids』『Profscam』(『大学教授調書―手抜きが横行する大学教育』化学同人)『The End of Privacy』『The Hollow Men』などがある。ニューヨーク・タイムズ紙やウォール・ストリート・ジャーナル紙など、多数の新聞にコラムを寄稿するほか、ウィスコンシン州ミルウォーキーのWTMJ放送局でテレビ・ラジオ番組のホストを務める。ウィスコンシン政策研究所のシニアフェロー。妻と3人の子どもがいる。

ついでにチャールズ・J. サイクスの著書『子どものための世の中を生き抜く50のルール』の内容もかいつまんで紹介しておきたい(本書の内容はAmazonで次のように紹介されている。「あなたの子どもを「人生の敗者」にしないために!巷にはびこる“甘ちゃん子育て論"は子どもをダメ人間にする。子どものうちから親として教えておくべき、人生の現実」)。

<大事にされない>
現代の若者が必要とするのは、「自分らしく」とか、「至福を追い求めよ」といった、あいまいで感傷的で、インチキな言葉ではなく、人生は不公平で、何でも手に入るわけではなく、世の中がママやパパのように自分の気持ちを大事にしてくれるわけではないと知ることだ。

<不公平に慣れる>
人生は不公平だ。それに慣れるしかない:人生が不公平なものだと認めることは、現実に目覚めること...君にできることは、その不公平にどう対処するかを自分で決めることだ。どう反応し、どう行動するかで、どんな人間に成長するかが決まる。

<不公平>
不公平だと感じる不満は、実際に不公平かどうかとは何の関係もない。それはただ、自分の人生に責任を持たなければならないとわかったことへの反応にすぎないのだ。自分の行動に責任を持つ。自分の選択したことには結果がともなう。

<行動する>
バットマンの恋人は正しい。「あなたがどんな人間かは、内面ではなく行動で定義されるのよ」気持ちだけでは十分ではない。「真剣」なだけでは十分ではない。正しい選択をして、正しい行動をとらなければならない。

<こうする、こうだ>
人生の勝者はつねに、自分ならできる、自分はこうする、自分はこうだというふうに考える。一方、人生の敗者は自分にはできない、こうしていたら、こうすべきだったという考えにとりつかれている。

<敗者>
敗者はたいてい、負けるのが嫌なので競争を嫌う。試されることを避けようとする。能力を高めることや目標を達成することより、負けて嫌な思いをすることのほうを気にかけているからだ。敗者は言い訳を考え他人を責め、意図と結果を混同する。

<成功と運>
敗者は、成功は運で決まると思っているので、宝くじを買う。勝者は、運がいいにこしたことはないが、成功できるかどうかは自分の力しだいだと考え、そのための責任をとる覚悟ができている。

以上

どれも的を射た軽妙な筆致だ。

ちなみに、お笑いタレント、コメディアンの成功者の志村けんも「人生は不公平」なものと言い切っている。

「いろんな人たちを遊びの場で見てきた。思うのは、人生は不公平だってこと。若いときからずっと恵まれている人もいる。急上昇して急降下する人もいる。人生の後半にピークを迎える人もいる。ずっと恵まれない人もいる。人生というゲームの勝ち負けに一定の法則がないことはこれを見てもあきらかだろう。ただし、ただし、ひとつ言えることがある。ずっと恵まれてみえる人はみな必ず努力していることだ。例外なくね。」

バカ殿様でもそのくらいのことは分かっているようだ。

また、三菱財閥の創業者で初代総帥の岩崎弥太郎(1835-1885)も同様のことを言っている。彼はあのロックフェラー財閥と手を組み、明治の動乱期に 政商として巨利を得た最も有名な人物である(孫にはクリスチャンでエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜がいる)。

「一日中、川の底をのぞいていたとて、魚はけっして取れるものではない。たまたま魚がたくさんやってきても、その用意がなければ、素手ではつかめない。魚は招いて来るものでなく、来るときに向かうから勝手にやってくるものである。だから魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生全ての機会を捕捉するにも同じ事がいえる。」

人生が不公平であることは現実である。にもかかわらず、死ぬまで泣きっ面して「人生は不公平だ!」と叫び続ける、いい年の大人がいる。そういう人にはっきり言っておきたい。人生は不公平だが、死は公平だ。しかし、同時に不公平な人生と公平な死からの救いがあることも告げておこう。その救いは勿論公平である。イエス・キリストを信じるだけで誰でも救われる。

さて、世界一の大富豪となったビル・ゲイツであるが、彼は倹約家であり、篤志家としても知られている。彼は『B&MGF』を設立した。それは“Bill(人名以外に請求書という意味がある) & Maranatha Grace Fellowship"ではない。『Bill & Melinda Gates Foundation、B&MGF(ビル&メリンダ・ゲイツ財団)』といって、ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のウィリアム(ビル)・ゲイツ・シニアとともに2000年創設された世界最大の慈善基金団体である。2005年には国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は、厳格に調査していると公表している。なお、2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフト社の経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団 (B&MGF)」の活動に専念すると発表した。一般的には早期に引退し慈善活動に携わることが成功者の美徳とされるアメリカの慣習に法った決断と言われている。2006年12月1日には、夫妻の死後50年以内に財団の資産を使い切って活動を終えると発表した。同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。同基金は、途上国のエイズ、マラリア、結核の根絶や教育水準の改善などに尽力しており、今後は寄付を拡大する方針も明らかにもしている。
早期に引退し慈善活動に携わることが成功者の美徳とされるアメリカの慣習は、いつ頃から始まったのか?

1880年代から90年代にかけて、「独占」を行う企業、その事業主への攻撃が激化する。世論の最大の標的は世界最大の石油会社『スタンダード・オイル』とその創業者ジョン・ロックフェラー(1839-1937)であった。

1890年に「独占禁止法」が成立。しかし、1896年の大統領選挙では、ロックフェラーは独占に対して寛容な共和党のマッキンレーに25万ドルの選挙資金提供を行い、マッキンレーは当選、ロックフェラー石油王国への政治的攻撃はしばらく後のことになる。

ちなみにこの反「独占」の世論は、独占企業オーナー達に相当なストレスを与えたようで、「鉄鋼王」カーネギーは1889年に「The Gospel of Wealth 富の神の声」を書き、「富裕層は社会に対する奉仕者となる責任がある」と論じ、1891年のカーネギー・ホール建設など社会貢献を行っていく。

一方のロックフェラーは、1889年の母エリザの死をきっかけに、母、そして本人が所属したバプテスト派の大学をシカゴに設立(シカゴ大学:正確には復興)するという最初の大型社会貢献事業を行う。彼は若い頃から、バプテスト教会とその新設に対して絶え間なく「寄付」(=収入の十分の一の献金)をしていたが、宗教色の比較的薄い「社会貢献」はこれが初めてであった。

そして、ロックフェラーとカーネギーは、マスコミに「社会貢献事業競争」と言われるまでになった。「鉄鋼王」カーネギーは、1901年に「カーネギー・スティール」を、「金融王」J・P・モルガンが指導する「U.S.スティール」に4億8000千万ドルで売却し事業から引退、社会貢献に専念する。

ロックフェラーは1891年に、バプテスト派牧師をロックフェラーの慈善事業の責任者として採用する。また1901年、現在のロックフェラー大学の前身である、「ロックフェラー医学研究所」を設立する。野口英世が1904年より同研究所で研究員として従事したことでもよく知られている。この学校の関係者から、23人のノーベル賞受賞者を輩出している。またこの大学では科学史上の大発見が数多くなされており、例えばDNAが遺伝情報を伝える物質であることや、血液型の存在、ウイルスが癌を引き起こすこと、抗体の構造、ヘロイン中毒患者へのメタドンの処方、エイズのカクテル療法、体重を制御するホルモンであるレプチンなどは、この大学で発見された。

ところで、晩年のロックフェラーは家族や兄弟とは折り合うことができなかったという。彼らは精神病になったり、金の魔力にとりつかれた浪費家になったりしてしまう。ジョン自身もストレスから脱毛症になったり、胃腸を痛めたりする。金持ちになってから、彼には友人というものができなくなってしまう。なにしろ彼に近づいてくる人は親族でも、金が欲しくて近づいてくるだけだからだ。


ジョン・D・ロックフェラーのキリスト教信仰については、『ロックフェラーが知っていた「もうけ方」』(イ・チュユン著)という本の中に詳しく言及されている(まるで献金することが金儲けして成功するための手段のような印象を与えるため、おススメの本とは言えないが)。以下にその内容をまとめてみた。

人類史上最高の富豪として、ビル・ゲイツの3倍もの富を築き上げたジョン・D・ロックフェラー(1839~1937年)は、多くの子孫に恵まれ、100歳近くまで生き、あらゆる幸いを手にした。彼はまた、多くの慈善事業を行い、あの野口英世(クリスチャン)も所属したロックフェラー医学研究所やロックフェラー財団等を設立し、人類の福祉と発展に貢献した人でもあった。そんな偉大な足跡を残した彼の成功の秘訣は、何と十分の一献金を忠実に神にささげることであった。

貧しい家庭の中で平凡に生まれたジョン・D・ロックフェラーは、信仰深い母から神にいつも感謝の心を持つようにと、幼い時から次の3つの約束を守るように教えられていた。

①十分の一献金をささげること(子どもの頃から小遣いの十分の一をささげていた)。
②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。
③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。

特に、マラキ書3章10節のみことばをよく思い起こすようにさせた。ロックフェラーは一生母親との約束を守りながら、神から与えられた賜物を開発し続けた。彼は、母親の教えに従って、困難の時も喜びの時も、いつも祈ることを忘れない人であった。ロックフェラーは高校を卒業すると、すぐに小さな会社の事務員として就職した。朝早く6時30分には出勤して仕事をするほど誠実な人であり、毎日、日記代わりに会計帳簿を記録しながら、資金の流れと社会情勢の変化を詳しく把握しながら歩んだ。20歳になって、ついに事業を始めた彼は、勤勉さと信用を土台として、億万長者の道を歩き始める。

彼は、当時新しい事業として現れた製油事業に大胆に投資をし、莫大な財産を築いた。特に、現場に密着した経営方式で優位に立ち、アメリカ国内で石油生産の95%を獲得し、ついに世界一の富豪になった。ロックフェラーは、億万長者になった後も、誠実に節約する精神を貫いた。彼は一生、日記を付けるように会計帳簿を徹底的に記録し、収入を正確に計算し、完全な十分の一献金を神にささげた。世界一の富豪になった後も、十分の一献金を計算するための担当部署に、40名の職員を雇ったほどであった。彼は、小学校に入る前から98歳で天に召されるまで、一度も忘れることなく十分の一献金を神にささげた。幼い頃から受けた母の教えは、彼にとって座右の銘となり、最も大きな遺産となったのだ。ロックフェラーは、十分の一献金が天の御国に宝を蓄えることであり、困難な人々を助けることであると考えていたので、いつも喜びながら十分の一をささげた。彼はこう言っている。「私のお金を稼ぐ才能は、神様から頂いた賜物であると信じています。このような素晴らしい神様の賜物を受けているのですから、お金を稼いでそれをまた増やして得たお金を、主のみこころに従って用いることが私の使命であると考えているのです」。

彼の母は、息子が世界一の富豪になったことを見届けてから、天に召された。しかし、母はいつも息子のことを心配していたので天に召される直前に、まるで十誡のような遺言を息子に残した。

①実の親以上に、神様に仕えなさい。
②神様の次に、牧師に仕えなさい。
③右のポケットには、常に十分の一献金を用意していなさい。
④誰であっても、敵はつくらない。
⑤礼拝をささげる時には、いつも一番前の席に座りなさい。
⑥朝はいつも、その日の目標を立て、神様の御前で祈りをささげなさい。
⑦寝る前には、必ず一日を悔い改める祈りをささげなさい。
⑧他人を助ける力がある時は、精一杯助けなさい。
⑨日曜日の礼拝は必ず、所属している教会でささげなさい。
⑩朝、目覚めた時に、まず神様のみことばを読みなさい。

以上


ロックフェラーがいかにも若い頃から忠実に富をもって神に仕えて来たような印象を受けるかもしれないが、実は重病を患い50歳代に入ってから彼は初めの愛に立ち返ったという。人生遅すぎることはない。


参考までに私の敬愛するカルバリー・チャペルのチャック・スミス牧師は、十分の一献金についてその著書『聖霊について教えてください』で次のように述べている。

「チャック、十分の一を献金するなんて、私たちにそんな余裕はありません」と言う人がいるが、私には十分の一を献金しないでおく余裕などない。神がご自分のものであるとおっしゃっているものを差し押さえるなど、考えることすらできない。預言者マラキを通して神は尋ねられた。「人は神のものを盗むことができようか」。人々は聞き返した。「どうやって、あなたのものを盗んだというのですか」。神は答えた。「それは、十分の一と奉納物によってである」。続いて、神は人々に奨励された。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(マラキ3:8~10)。

・・・私たちは自分たちの財産の中から神にささげているようだが、実は神のものを神に返しているだけなのだ。与える(ささげる)ということに関する私の考え方は年月と共に変わってきた。以前の私は「今月は私のお金のどれだけを神にささげることができるだろうか」と考えていた。今では「今月は神のお金のどれだけを私自身のために使わせていただけるだろうか」と考える。私のお金はすべて神のお金だ。私はただ、神のものを返しているにすぎない。神は私をしばらくの間、神の持ち物の管理人としてくださっているのだ。私は神が私の手にお任せになったものの使い方について、自分の責任をきちんと果たしたと説明できるようになりたいと思っている。

引用以上
盗みをしている者は、もう盗んではいけません
(エペ4:28)
この言葉はエペソの教会のクリスチャンに対して語られた。

「MGF牧仕のキリストバカ一代」補完ブログ-110929f
鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835-1919)は、慈善行為については、次のように述べている。

「富の運用方法については、相続や遺贈によらず、自己の責任で、生存中に行なうのが最も望ましい。

富を役立つものとするために、私たちは賢明な用い方をしなければならない。求められるまま寄付に応じたりして、その結果を考えなかったり、寄付を受ける人たちがどのような人たちであるかを考えずに、無用とも言える慈善行為に熱中してはいけない。・・・・

今日、アメリカで慈善のために使われている一〇〇〇ドルのうち、九九〇ドルは誤った使い方をされていると思う。・・・・多くの人々は、慈善とはただ金を与えることだ、としか思っていない。

しかし人が慈善を行ない、何かを与えようとするときに、まず考えなければならないことは、私たちが助けるべき相手は自分自身で努力している人に限る、ということである。

みずから向上しようと努力する人に、その手段の一部を与えて助けることが真の慈善である。決して、手を上げてただ施しを待っている人を助けることではない」。

「私がかつて愛読したプルタルコスの『道徳談』に、次のような一節がある。

『一人の乞食(こじき)が、通行人の袖を引いて、喜捨(きしゃ)を乞うた。それに対して通行人は答えた。

「一番最初に、金銭をお前に与えた人がいたために、それがお前を怠惰(たいだ)にしてしまった。そして現在のように卑しく、恥ずべき生活を送らせるようになった。

もし今、私がいくらかの金銭をお前に与えたりすれば、お前はこれより後、もっとみじめな乞食になるだろう」』。


「自分の生存中に、自分の富を人々のために役立てられなかった富豪がいる。また富は天国へ、あるいは地獄へ自分と一緒に持っていけないという理由で、自分の死後やむなく人に遺贈したという富豪もいる。

しかし彼らに対し、一人の泣く人も、弔(とむら)う人も、敬う人もいない、という時がやって来るだろう。いずれ人々は、そのような富豪の死に際して、つぎのような弔辞(ちょうじ)を贈るようになるだろう。

『富を持って死ぬのは、じつに不名誉である』」。

またこう述べた。

「『富める者が天国の門をくぐるより、らくだが針の穴を通るほうがやさしい』(マタ一九・二四)と言われたキリストの言葉と、私がしばしば語る、『富を持ったまま死ぬことは恥である』は、その説こうとすることはほとんど同じであり、そこにはわずかな差があるだけである。

私が説く富の福音は、キリストの言葉を、現代のアメリカに合わせて説いているのである。それを要約すれば、次のようになるだろう。

『富める者は、母なる大地の中に眠る前に、自分の持っているものをすべて売り、その富を、貧しい人々のために役立つ最も有益な事業に使用すべきである。

そうすれば、無用の富の蓄積者として一生を終えることはない。このようにして最期を迎えた人の死は、金銭的には貧しい人と変わりがなくなっても、社会から受ける尊敬、愛情、感謝、称賛は限りないだろう。

その人は、富を抱いたまま死んだ人に比べて、何十倍もの心の富者となることができるのである。

また、自分がたまたまアメリカに生まれて富を得る機会に恵まれた結果、死んでなお、世界の一小部分といえども善美なものに変えることができるなら、天国の存在を信じる人は、大いに意を強くしてよい。

このような富者に対して、天国の門は、決して閉ざされてはいない。それはつねに開かれている。

富をいたずらに蓄積し、その正当な使い道を知らず、自分の欲望を満足させるためだけに使った人々は天国に入ることができない、とは信じるに足る事実である。

しかし同時に、富を人々のために役立てて生きた人々が、天国の喜びを分かつことができる、ということもまた、疑い得ないことなのである」。

六七歳で実業界を引退し、社会事業に進出

カーネギーは、このように明確な富の哲学を持っていた。そして彼は、この富の哲学をもって富の創出に成功し、それを蓄積し、豊かに用いたのである。

彼は、社会の活力を失うような、的外れの慈善は嫌った。しかし一方では、不幸な貧しい人々のことを、つねに心にかけていた。


カーネギーが製鉄業に参入してまもなくのこと、取引先の炭鉱で、爆発事故が起きたことがあった。その事故の際、ある監督が、炭鉱内に閉じ込められている同僚を救うために、率先して坑内に入り、自分もまた事故の犠牲になった。

後日カーネギーは、新聞の報道でこの勇敢な監督の行為を知った。このとき彼は、監督の勇気を讃え、自分から申し出て遺族に年金を贈っている。

またこのあとカーネギーは、自分が経営するすべての工場で働く人々を対象に、現在の「労働者災害保険」(労災)に相当するものを設置した。

事故で働けなくなった労働者や、死亡した労働者の遺族に、年金を贈るようにしたのである。この制度は、「労働者は使い捨て」としか考えない資本家の多かった当時において、画期的なものであった。

カーネギー・スチールに働く労働者は、労働災害について心配せずに、働くことができるようになった。カーネギーは、こうした配慮は、経営者の当然の義務と考えていた。

カーネギーはまた、カリフォルニア州に、有名なパロマ天文台を建設した。そのすぐ近くにあるウィルソン天文台も、カーネギーと、ロックフェラー財団との力によって完成したものである。

このウィルソン・パロマ天文台は、現在でも世界最大の二〇〇インチ反射望遠鏡を持つ天文台として、世界的に有名である。

また、船の金属部分をすべて銅製にした観測船の製作のためにも、援助をした。この高価な船は、羅針盤(らしんばん)を用いて海岸線を測量するために、用いられた。

普通は鉄を使うところをすべて銅で製作したため、羅針盤が鉄の持つわずかな磁気に影響されることなく、非常に精密な観測が可能となったのである。

カーネギーはまた、一定の基準を設け、それに該当する教会に対しては、教派を問わず、申し込みがあれば寄付に応じていた。

彼はアメリカやヨーロッパなどの教会に、数万台におよぶオルガンを寄贈しているが、寄贈の際には、必ずオルガン工場からの請求書をつけることを条件とした。これは寄付がオルガンのために使用されることを保証するためである。

またオルガンにカーネギーの名を刻むことを禁止し、売名行為とされることを、強く戒めている。

カーネギーは、六七歳になった一九〇一年に、実業界を引退した。

このとき、彼が創業したカーネギー・スチールは、アメリカの鉄鋼生産高の五〇%を占めるまでになっていた。彼はこのカーネギー・スチールを、約五億ポンド(当時の交換レートで約二〇億ドル)で、モルガン財閥(ざいばつ)に売り渡した。

しかし、カーネギーがモルガン財閥から受け取ったのは、現金ではなく、大半が年五分利つきの社債だった。

モルガンにその現金を調達する力がなかったというわけではない。しかし仮に現金で支払いを求めたら、モルガンは買収したカーネギースチールをいくつかに分割して、一部を切り売りする必要があっただろう。

カーネギーは、それを避けたかったのである。彼は企業の倒産をかえりみず、すべてを現金にかえるというような無謀なことは、したくなかった。

カーネギーは、受け取った社債をそっくり、社会事業の基金として寄付した。そして社債の生み出す金利を、社会事業の恒常的な支出に当てさせたのである。こうして彼は、寄付を贈られる側にも、自立を促すよう配慮した。

彼の寄付によって、ニューヨークのカーネギー・ホール(もとはカーネギーの名を冠してはいなかったが、のちに俗称が一般化した)、カーネギー工科大学、カーネギー財団、カーネギー協会などが設立された。

以上、キリスト教読み物サイトより抜粋
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/ando.htm

「MGF牧仕のキリストバカ一代」補完ブログ-110929h
早期に引退し慈善活動に携わることが成功者の美徳とされるアメリカの慣習は、ロックフェラーとカーネギーの転身に端を発することは明らかである。両者の金銭概念、慈善精神はキリスト教信仰に由来することにも触れた。ここでジョン・ロックフェラー(1839-1937)、アンドリュー・カーネギー(1835-1919)と同時代に活躍したハドソン・テーラー(1832-1905)という人の言葉も紹介しよう。彼は中国奥地宣教団(現:OMFインターナショナル)の創立者で、同団体はのべ800人の宣教師を呼び、125の学校を開校し、18,000人の回心者を生んだ。現在中国を1億人以上のクリスチャンを擁する世界最大のクリスチャン国に導いた立役者こそハドソン・テーラーと言われている。

「自分のために使う額が減り、他の人に与える額が多くなればなるほど、私の魂はさらに幸福と祝福で満たされるようになった。」

さらにさかのぼって18世紀の英国国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したリバイバリストのジョン・ウェスレー(1703-1791)もこの善き慣習についてこう言っている。

「お金が私といっしょにいつづけることは決してない。もしお金がとどまったとしたら、私を燃えつくしてしまうだろう。私はお金はなるべく早く手放すようにしている。そうしないと、お金は私の心に入り込んできてしまうからだ。」

「あなたの心を神に向かって健全なものにしなさい。神の中に、そして神のみにあなたの幸福を捜し求めなさい。塵に固着しないように気をつけなさい。此の地上はあなたの場所ではない。此の地上を乱用しないで使うように注意しなさい。此の世を使って、そして神を楽しみなさい。」

「私はすべてのことを、永遠において獲得できる価値によって判断する。」

このようにビジネスの成功者だけが慈善活動に携わるわけではない。


【慈善か偽善か?】

実は、ビル・ゲイツはアンドリュー・カーネギーとジョン・ロックフェラーの生涯を研究し、特に寄付と慈善活動は今も存命中のジョン・ロックフェラーの息子のデイヴィッド・ロックフェラーの影響を強く受けている。ビル・ゲイツは自身の父親と共にロックフェラー家と何度も面会し、自分たちの慈善基金団体のモデルと位置づけている。

しかしビル・ゲイツは、ジョン・ロックフェラーやアンドリュー・カーネギーらと違って自らを無神論者もしくは不可知論者(消極的無神論者)であることを公言している。ただしキリスト教の道徳律が有効かつ有益であることは認めている。ビル・ゲイツが子どもの頃、彼の家族はキリスト合同教会(会衆派教会)に定期的に出席していたという。実はビル・ゲイツは、世界初の印刷聖書であるグーテンベルク聖書を個人で所有している。自著『ビル・ゲイツ未来を語る』などでは、インターネットの普及による社会的な影響力の大きさをグーテンベルクの活版印刷になぞらえるなど、グーテンベルクの研究にも熱心である。また彼はハーバード大学を休学し、2007年名誉学位号が授与されているが、キリスト教系の立教大学から名誉博士号を授与されたときには、「大学を出ていない私が大学からこのような学位を得られて嬉しい」と語っている。彼はキリスト教を好意的にとらえるも、個人的必要性を覚えない。そういう輩が一番曲者である。ロックフェラーらの慈善行為は模倣しても慈善精神(信仰)は拒否している。まさに開国期の日本と同じで和魂洋才とは名ばかりの無魂洋才の実利主義である。キリスト教精神が完全に骨抜きにされている。

この問題点について明治の日本を代表するキリスト者・内村鑑三が明快に語っている論考がある。

日本国に一つの大困難があります。それは富の不足の困難ではありません。また学問の不足の困難でもありません。法律の不整頓の困難でもありません。農商工の不振の困難でもありません。それはモット深い、根本的の困難であります。その困難があるからこそ、日本の社会は今日のやうな稀代なる状態をあらはしてゐるのであります。しかるに日本人のほとんど総体は、困難をその根本において探らずして、資本の欠乏を歎じ、道徳の衰退を悲しみ、政治家、教育家の腐敗、堕落を憤ってをります。そのことそれ自身が実に慨歎すべきことであります。

日本国の大困難、その最大困難とは何でありますか。私は明白に申します、それは日本人がキリスト教を採用せずしてキリスト教的文明を採用したことであります。これが、わが国今日のすべての困難の根本であります。この大なるアノマリーすなはち違式があるゆゑに、わが国今日の言ふべからざる種々雑多の困難が出て来るのであります。


キリスト教的文明とは、読んで字のごとく、キリスト教によって起こった文明であります。すなはち、キリスト教なくしては起こらなかった文明であります。ゆゑに、キリスト教を学ぶにあらざれば解することのできない文明であります。しかるに日本人はキリスト教的文明を採用して、その根本たり、その起因たり、その精神たり、生命たるキリスト教そのものを採用しないのであります。これは、あたかも、人より物をもらって、その人を知らず、その人に感謝しないと同じことでありまして、かかる不道理なる、かつ不人情なる地位に自己を置いた日本人が、限りなき困難に際会しつつあるのは、最も当然のことであると思ひます。

・・・(中略) ゆゑに、われらの今日なすベきことは何でありませうか。われらは西洋文明を捨てませうか。否、そんなことは決してできません。ゆゑに今よりただちに進んで、西洋文明の真髄なるキリスト教そのものを採用するのみであります。これ日本国の取るべき最も明白なる方針であります。このことは実に難事であります。しかし日本国の青年が釈然としてここに覚るところがあり、憤然として起って、純正のキリスト教をわが国に伝ふるに至りますれば、日本国の将来は少しも心配するに足りません。日本国の愛国者よ、今はキリストのため、日本国のため、全身をキリスト教の伝播に注ぐべきときであります。

(1930年3月『聖書之研究』より抜粋)


信仰に基づいて慈善活動したジョン・ロックフェラーなどとは違い、ビル・ゲイツのような無神論者の慈善家は、慈善というものを単に国という仕組みを介さない富の再配分システムとしか捉えていない。昨今は「フィランソロピー」などと呼ばれている。その語源はギリシャ語の「フィロス(兄弟愛)」と「アンスローポス(人間)」からなり、原意は"人間を愛すること"。神を愛するよりも人間を愛するヒューマニズム(人道主義)が強調される。福祉政策などに代表される政府の機能に頼ることなく、社会的改革に影響を及ぼそうとする民間セクターとして税金が控除され政府の支援を受けることもある。彼らにとって召命感(神の栄光を現わすために神から与えられた使命感)や弱者に対する同情や痛みといったことは必ずしも重要ではない。

無神論者で世界的に著名なイギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者のバートランド・ラッセル(1872-1970)は、「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味もない」と正直に告白した。無神論者には生きる目的がないことを認めたのだ。兆万長者ともなるとその空しさはお金では決して満たされないことを彼らは痛いほどわかっている。そんな彼らにとってその空虚感を最も満たし得るものが、最も社会貢献度の高い慈善活動なのだ。社会に有益なことをする人は社会的価値のある人という論理である。そうやって彼らは自分自身の存在意義の自己証明を試み、自己満足を得ようとするのだ。これは同時に貧困層を尻目に富を独占することから来る罪悪感からの解放と弱者に感謝されることによる自己有用感が快感となるカタルシス(自浄作用)とも言える。

$「MGF牧仕のキリストバカ一代」補完ブログ
またこれは金持ちの宿命だが、金が枷(かせ)となる。人は金の魔力にとりつかれ、金(正確には金銭欲)が人を狂わす。富に執着して私腹を肥やせば破滅的な守銭奴に成り下がる。しかし社会貢献のために富をある程度手放すことができればそれを免れることができる。加えて遺産相続を巡る骨肉の争いも避けられる。アンドリュー・カーネギーは、「莫大な遺産は、子どもにとっては、のろいでしかない。巨万の富という重荷を負わせて子どもにハンディキャップを与える権利は、だれにもない」と言っている。金持ちにとって慈善は自己の健全な精神を保持し、他者との人間関係のトラブルを回避するためには最高の手段となり得る。

もう一つの宿命は、金持ちは必ず世論の反「独占」の風潮を受け、人々の嫉妬心や不平等感にさらされる。それをかわすために最も有効なのが慈善である。営利を確実に公益に還元しているのであれば誰も文句はつけられない。社会に嫌われながらも社会に必要とされることで整合性を保つことができるのだ。勿論売名行為だと批判されることもあろうが、それが一過性のものでなく、しかも大規模なものであればあるほど味方を多く作ることができる。とりわけ医療分野の発展に高額の寄付をするのは、万が一自分自身や家族が贅沢病または帝王病(生活習慣病)や難病などを発した時の助けとなることを希望するからだ。健康が金では買えないことを彼らはよく知っている。事実ジョン・ロックフェラーは50代で全身を病んでしまい、医療の発展の必要性を実感したという。

以下にアメリカの大富豪による慈善に関する興味深い記事を紹介する。それは“We are the world"の富豪寄付版と呼ばれるキャンペーンに関するものだ。

バフェット、ゲイツ氏の呼びかけで米富豪が寄付を誓約』
(ウォール・ストリート・ジャーナル 日本版 2010年 8月 5日)

米ソフトウエア大手オラクルの創業者、ラリー・エリソン氏は、米著名投資家ウォーレン・バフェット氏と米マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツ氏とその妻メリンダさんからの呼びかけに応じて、米映画監督ジョージ・ルーカス氏ら39人の億万長者と共に、自らの資産の半分を慈善事業に寄付することを誓約した。

バフェット氏は4日、シティグループの元経営者サンディー・ワイル氏やホテル王のバロン・ヒルトン氏をはじめ、米国で最も裕福な40の個人や一族が「ギビング・プレッジ」に署名したと発表した。

ギビング・プレッジは、バフェット氏とゲイツ氏が推進中の慈善キャンペーンで、米国の富豪たちに、生存中または死後、少なくとも自らの資産の半分を慈善団体に寄付することを公に誓約してもらうことを目的としている。その一環として、両氏は6月、上記の人々にキャンペーンへの参加を依頼していた。

今回行われた誓約は、両氏が過去1年かけて、複数の米国の億万長者と夕食会を重ね、リセッション(景気後退)が慈善活動に与えた影響を話し合った結果、実を結んだもの。

ギビング・プレッジは、これまで多くの富豪が個人的にひそかに行ってきた行動を公にしようとするものだ。キャンペーンに参加した人々の多くは、以前から資産の多くを寄付する意向を示していた。

こうした取り組みの背景には、米慈善活動調査団体ギビングUSA財団の調査によって、寄付金の額が2年連続で落ち込んでいることが明らかになったことがある。同団体は1956年以降、毎年調査を行っている。

同団体によると、寄付金額は2008年は前年比2%減、09年は同3.6%減の3038億ドル(約26兆円)となった。

バフェット氏はインタビューで、キャンペーンによって短期的には寄付金は増える可能性があるが、本来の目的は、多くの裕福な人々に慈善事業に関与してもらうことで、長期にわたって模範を示してもらうことだと述べた。

「先人が手本を示せば、後に続く者もそれに倣うはずだ。それが多少なりとも社会で認められた人物であれば、なおさらだ。カーネギーやロックフェラーが先例を作ってくれていなければ、米国の慈善活動は今ほど積極的に行われていなかったに違いない」

さらにバフェット氏は、海外からも署名への参加者を募るべく、同氏とゲイツ氏は今後数カ月間に、中国やインドの富豪とも会い、キャンペーンについて説明する予定だと述べた。

4日に公表された著名人のリストには、意外な人物の名前もあった。その1人がオラクルのエリソン最高経営責任者(CEO)だ。エリソンCEOも、以前から慈善活動には参加していたが、それをほとんど公にしてこなかった人物の1人だ。

「今まで、寄付活動について公言したことはほとんどなかった。これまでずっと慈善活動は個人的に、ひそかに行うものだと考えていたためだ」と、バフェット氏の呼びかけに応じた書簡でエリソン氏は述べた。

書簡は、エリソンCEOの決意を示す誓約書として、ギビング・プレッジのウェブサイトに掲載されている。

エリソンCEOは、実質ほぼすべての資産を信託に預けており、少なくとも95%は慈善活動に寄付する意向だったとし、既に数億ドルを医療研究や教育事業に寄付していると述べた。

「そのため、なぜ今さら公にする必要があるのかと思った。だが、ウォーレン・バフェットから、誓約書を書くことで、ほかの人に対して『模範』を示し、『感化』してほしいと依頼された。そうなることを期待している」とエリソンCEOは書簡で述べた。

映画『スター・ウォーズ』シリーズの製作者、ジョージ・ルーカス氏は、ギビング・プレッジのウェブサイトに掲載された誓約書で「資産の半分を教育の向上にささげる。教育こそ人類存続のカギだ」と述べた。

このほか、マイケル・ブルームバーグ・ニューヨーク市長や石油王のブーン・ピケンズ氏を含む他の誓約者も、既に以前から資産の半分を寄付する意向を示していたが、キャンペーンへの注目を喚起することで、他の追随を促したいと述べた。


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2011年9月20日(火)の記事を転載

◆『失踪のJR北海道社長、遺体を確認…小樽沖』
(読売新聞 2011年9月18日)

12日朝から行方不明となっていたJR北海道の中島尚俊社長(64)の遺体が18日朝、北海道小樽市・オタモイ海岸の沖合約1キロの海上で見つかった。

札幌市東区の自宅に遺書とみられる十数通の書き置きが残されていたことから、北海道警は自殺とみて、死因などについて調べる。

道警幹部によると、遺体は18日午前7時55分頃、プレジャーボートの釣り人が発見し、小樽海上保安部の巡視艇が収容した。指紋などから、道警が中島社長と確認した。

家族や会社関係者らに宛てた書き置きには、5月27日に占冠(しむかっぷ)村のJR石勝線トンネル内で起きた特急の脱線炎上事故の後、同社で相次いだ一連の不祥事で心労が重なり、「仕事で迷惑をかけた」などと記されていた。

同事故では、避難誘導の遅れが問題視されて、国土交通省から事業改善命令・指示を受け、中島社長は今月16日に改善策を自ら同省に報告する予定だった。

中島社長は10日午前、札幌駅前で行われた同社のイベントに出席。11日に休日出勤して帰宅した後、12日朝から姿が見えなくなっていた。北に約20キロ離れた石狩市の海岸近くで自家用車が見つかり、付近や海上で捜索活動が続いていた。

中島社長は旭川市出身。東大経済学部卒業。1969年、日本国有鉄道に入社。国鉄民営化でJR北海道が発足し、鉄道事業本部販売課長に就任。常務旅行業本部長、専務鉄道事業本部長などを経て、2007年6月に社長に就任した。


◆『小樽沖の男性遺体、JR北海道社長と確認』
(朝日新聞 2011年9月18日)

18日午前7時55分ごろ、北海道小樽市の沖合約1キロの海上で、男性の遺体が浮いているのをボートで通りかかった釣り人が見つけた。道警は、遺体の特徴から12日に行方不明になったJR北海道の中島尚俊(なおとし)社長(64)と確認し、発表した。自殺とみて死因などを調べている。

同社をめぐっては、5月に特急列車が脱線炎上し、乗務員の避難誘導が遅れて多数の乗客が手当てを受けた。国土交通省が事業改善命令を出し、16日に小池明夫会長が改善措置の報告書を提出した。

小池会長は18日夜に開いた記者会見で、この事故に触れ、中島社長が自殺したとみられることについて「国交省への事業改善命令などに対する報告づくりの過程で、心労が累積していったのではないか」と述べた。

中島社長は自宅に家族や会社関係者、知人に宛てた遺書とみられる書き置きを10通ほど残していた。会見では、その中の「社員の皆さんへ」と題された文書の内容が公表された。「企業風土の改善に取り組んでいる時に真っ先に戦線を離脱することをおわびします」「お客様の安全を最優先にすることを常に考える社員になってください」などと記されていたという。

同社や道警によると、中島社長は12日朝に行方がわからなくなった。自家用車が同日午後、札幌市の自宅から北に約17キロ離れた石狩市の海岸近くで見つかった。遺体の発見現場は、車のあった海岸付近から西に30キロほど離れている。

<引用以上>


JR北海道社長の故中島尚俊氏は家族や会社関係者らに、「仕事で迷惑をかけた」「企業風土の改善に取り組んでいる時に真っ先に戦線を離脱することをおわびします」「お客様の安全を最優先にすることを常に考える社員になってください」などといった書き置きを残したそうだが、自殺もまた迷惑千万な話である(中島氏の遺族にとってはどうかわからないが・・・)。生命保険に一定の期間加入していれば自殺すれば保険金がもらえるが、それでも誰にも迷惑をかけないということにはならない。警察などによる捜査・捜索費用には税金が使われている。自殺、事故死、遭難死などのケースでは、他人に迷惑をかけたり、損害を与えたり、捜索などで大勢の人の手をわずらわせたりすることがある。そういう場合は、遺族が迷惑料を支払ったり、損害賠償を行なったりしなければならない。たとえば遭難死の場合、捜索費用はもちろん、遺体の引き上げ、運搬にも費用がかかる。山岳域の広い長野県では民間の救助ヘリが動員されることがあり、この場合は1時間あたり80万円の実費が必要となる。鉄道自殺などの場合には、現場処理のみならず、ダイヤの乱れなどに対して、莫大な損害賠償を求められることもある。最近鉄道自殺が頻繁に報じられているが、ちなみに日本の健康保険では、原則として自殺未遂後の治療に生じる医療費は保険適用されず全額自己負担となる。このために、自殺未遂した男性が入院中に数百万単位の医療費負担を家族に背負わせ、その母親が心ならずもその男性を殺害した事件が発生したこともある。

この事件について、クリスチャンの視点による興味深いブログ記事を見つけたので以下に紹介しておく。

●羽村の風
http://www.bloglovin.com/m/2788508/294824200/fb


さて、私はそれとは別の角度からこの事件について私なりに感じたことを少し述べることにする。それは経営者(指導者)の責任という観点によるものだ。私は教会の牧仕であって、会社経営について何も知らない。しかし「経営の神様」と呼ばれる男の著作は昔読んだことがある。パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者、松下幸之助(1894-1989)その人である。彼は自分と同じく丁稚から身を起こした江戸時代の思想家・倫理学者の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

ちなみに第95代内閣総理大臣野田佳彦(1957~)は、松下政経塾の第一期生として有名である。実は、松下幸之助は、日本を「無税国家」にするという理想を掲げて、自ら国会議員になろうとまで思い詰めていた。突然、「ワシは政治家になる」と言い出した。だが、齢80歳を迎えようとしていた頃だったので側近たちや周辺の人たちから、「功なり名を遂げた経営の神様が、万が一、落選でもしたら、晩節を汚すことになるから止めてください」と引き止められた。そこで、松下幸之助は、若い世代に自ら掲げた理想である「無税国家」の実現を託そうと、1979年、財団法人である松下政経塾を創設したのである。松下政経塾創立の立役者でもある、みんなの党所属の参院議員江口克彦氏は、「松下政経塾で学んだのなら、松下幸之助氏の『税金を安くするのが政治家の役割だ』という主張を頭に叩き込んだはず。チャレンジ精神を失い、『理念や志のためには死んでもいい』という覚悟を忘れている。省内をまるくおさめよとする余り、財務官僚の書いたペーパーをそのまま読んでいる。これでは財務省の傀儡も同然だ」(「夕刊フジ」2011年8月20日)と述べている。

三重県鈴鹿市にある椿大神社の境内末社に松下幸之助を祀る「松下幸之助社」があるそうだが、無論私は松下幸之助を「経営の神様」だとは信じていない。実際松下幸之助は、辯天宗(辯天宗:べんてんしゅう)の信徒代表であった。辯天宗は高野山真言宗の流れを汲む仏教系新宗教である(創始者は大森智辯で大阪府茨木市に本部を置く)。系列の智辯学園高等学校、智辯学園和歌山高等学校は、高校野球の強豪、甲子園の常連校として全国的に有名である。ちなみにJR北海道社長の故中島尚俊氏は創価学会員だそうだ。
私のこれまでの人生というものは、さまざまなことを教えてくれた多くの人々の『一言』によって支えられ、成り立っていると言っても過言ではありません。
(松下幸之助)
松下幸之助の著作は、経営者ならば誰でも一度は目にしたことがあるだろう。彼の思想の背景には、前掲の辯天宗という新宗教と、江戸時代の思想家・倫理学者石田梅岩の開いた石門心学に由来する。石門心学の思想は、神道・儒教・仏教の三教合一説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる。私はこうした異教の思想を奨励するつもりはさらさらないが、聖書の中にも当時の神話、哲学、格言、詩などから引用している箇所がある(使徒17:28,29;Ⅰコリント15:33;テトス1:2;Ⅱペテロ2:22等)。つまり、異教や世俗の教えに中にも一定の真理が認められるということだ。
以下に松下幸之助の主に経営・処世にまつわる格言をピックアップした。それらの多くはクリスチャンの私から見て聖書的と思えるものに絞ってあるので、クリスチャンの読者の心にも響くものがあるだろう(勿論クリスチャンは松下幸之助による自己啓発、セフヘルプ関連の著作をわざわざ購入して読む必要はない。以下の格言を読んで聖句を思い巡らすならば有益である)。果たしてJR北海道社長の故中島尚俊氏はこれらの名言を知っていただろうか?
「会社にとっていちばん危険なのは、社長だ。」

「会社に損をかけるような社長は、悪意でないというだけの話で、結果はどろぼうと同じことである。」

「悪い年は必ずしも悲観する年ではない、それは新たに出発するところのめでたい年である。」

「それでお客様が喜びますか?」

「社会生活は日々これ戦い、日々これ苦難。その時に心が動揺するかしないかは、信念の有無で決まる。」

「失敗の原因を素直に認識し、『これは非常にいい体験だった。尊い教訓になった』というところまで心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。」

「自分には、自分に与えられた道がある。広い時もある。せまい時もある。のぼりもあれば、くだりもある。思案にあまる時もあろう。しかし、心を定め、希望を持って歩むならば、必ず道は開けてくる。深い喜びも、そこから生まれてくる。」

「私は死の直前まで運命に素直に従いたい。」

「指導者は才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なきことをおそれなくてはならないと思う。」

「指導者に、ぜひともこれをやりたいという強い熱意があれば、それは必ず人を動かすだろう。そしてその熱意に感じて、知恵ある人は知恵を、才能ある人は才能をといったように、それぞれの人が自分の持てるものを提供してくれるだろう。」

「指導者というものは、いろいろなかたちでみずから信ずるところ、思うところを人びとにたえず訴えなくてはならない。と同時にそのことを自分自身が率先実践することが大事であろう。」

「経営者にとって大事なことは、何と言っても人柄やな。結局これに尽きるといっても、かまわんほどや。まず、暖かい心というか、思いやりの心を持っておるかどうかということやね。」

「苦難がくればそれもよし、順調ならばさらによし、という心づもりを常に持ち、人一倍の働きを積み重ねてゆくことが大切だと思う。」

「わしは必ずしも成功したとは考えておらん。なんといっても、人間として生まれてきた以上は、人間としての成功が大事やからね。まだまだそういう意味では成功したとはいえんわけや。」

「世の中の多くの人は、少々うまい事いかなくなると途中で諦めてしまう。本当に物事を成し遂げる為には、成功するまで諦めない事である。やっていくうちに、世の中の情熱が有利に展開していくことだってあるのだから。」

「山は西からも東からでも登れる。自分が方向を変えれば、新しい道はいくらでも開ける。」

「病気と寿命は別のもの。病がいつ死につながるかは寿命に任せ、病を一つの試練と観じ味わい、大事に大切に養いたい。」

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」

「人には燃えることが重要だ。燃えるためには薪が必要である。薪は悩みである。悩みが人を成長させる。」

「万策尽きたと思うな! 自ら断崖絶壁の淵にたて。その時はじめて新たなる風は必ず吹く。」
「人間というものは、気分が大事です。気分がくさっていると、立派な知恵才覚を持っている人でも、それを十分に生かせません。しかし気分が非常にいいと、今まで気づかなかったことも考えつき、だんだん活動が増してきます。」

「悩んでも悩まない、そういうように感じることができれば、人生は決して心配することはない。」

「悩みに負けてしまわず、自分なりの新しい見方、解釈を見出して、その悩みを乗り越えていくことが大切である。」

「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。」

「とにかく、考えてみることである。工夫してみることである。そして、やってみることである。失敗すればやり直せばいい。」

「誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。」

「全体で決まったことなので・・・などというのは、責任者として取るべき責任の自覚が欠けている。」

「すべての人を自分より偉いと思って仕事をすれば必ずうまくいくし、とてつもなく大きな仕事ができるものだ。」

「心配や憂いは新しいものを考え出すひとつの転機。正々堂々とこれに取り組めば新たな道が開けてくれる。」

「人生における成功の姿は、予知できない障害を乗り越え、自分に与えられた道を着実に歩んでいくことにあらわれる。」

「社長こそ心配する役や。社員の中で一番心配が多いのが社長である。そこに社長としての生きがいがあるんだということを、私は自分自身に言いきかせて、それで難関を突破してきたわけです。」

「自分が方向を変えれば新しい道はいくらでも開ける。」

「失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたい。」

「失敗したところでやめるから失敗になる。成功するまで続けたら、それは成功になる。」

「仕事に悩みがあって、その悩みからヒントを得て解決するというときに、始めてコツがわかってきます。経営にとって、非常に難しい状態とか悩みとかいうものは本当は大きなプラスなのです。経営も経済も、行き詰れば行き詰るほど必ず道は開けてくるのです。」

「この世に存在する一切のものは、すべて不要なものは一つもない。」

「心を定め、希望をもって歩むならば必ず道はひらけてくる。深い喜びもそこから生まれてくる。」

「心の持ち方で結果が変わる。楽観か悲観か、積極か消極か。心のあり方如何で、物の見方が変わってくる。」

「こけたら立ちなはれ。」

「競争も必要、対立することもあっていい。だが敵をも愛する豊かな心を持ちたい。」

「逆境もよし、順境もよし。要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである。」

「志さえ失わなければ、困難や問題は全て新たな発展の契機として生かすことが出来る。自分が病がちだから先頭にたって、商売をすることはできない。どうしても自分の代理に頼んで仕事をしてもらうことになる。そうなれば10人にも100人もの人にも頼めるし、非常に多くの仕事を出来るようになる。」

「見方を変える。何事もゆきづまれば、まず、自分のものの見方を変えることである。案外、人は無意識の中にも一つの見方に執して、他の見方のあることを忘れがちである。」

「人は、あるところでは卑劣に行動しながら、別のところで高徳に振る舞うことはできないのである。その些細な心の緩みやごまかしが、全体を蝕んでいくのである。人は騙せても自分自身は騙せない。」

「売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永久の客を作る。」
「知るとは、単に知識によって理解するのではなく、体得してはじめて知ったことになる。」

「真実に立つというのは、まことに強いもので、経営者が真実に立っていれば社員やお得意先からの信頼が、おのずと集まってくる。真実に立っての言動は、やはり人の心に通じるし、そのことがまた、自分の行き詰まりを打開する上でも極めて大きな力になると思うのである。」

「志とは、自分の力を超えた存在に、自分という有限な存在を同化させていく作業なのである。」

「自分が利を得るために、不必要に自身の膝を屈することは決してすまい。なぜなら、そうして得られた応援や協力は、また目に見えないしがらみを生み、道を暗くするからである。」

「感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく。」

「悩みはあって当たり前。それは生きている証であり、常に反省している証左でもある。」

「決心することが社長と大将の仕事である。」

「力強さは使命感を持つところから生まれる。」

「迷う、ということは一種の欲望からきているように思う。ああもなりたい、こうもなりたい、こういうふうに出世したい、という欲望から迷いがでてくる。それを捨て去れば問題はなくなる。」

「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ。」

「何と申しましても経営の基礎は人であります。この会社がよくなるのも悪くなるのも、この会社が事業を通じて社会に貢献するのもしないのも、すべて従業員の考え一つによって決定されるのであります。そうでありますから、個々の人々のものの考え方というものが非常に大事であり、まず個々の人々を成長させるということが絶対に必要であります。個々の人が幼稚であれば、幸いに一致団結しましても、その力というものは結局その範囲を出ないものと思うのであります。そういうことを考えて、各人の成長、教育ということに本年は特に重点を置きたいと思うのであります。 」(1958年度(昭和33) 経営方針発表会にて)


<引用以上>

重ねて言うが、私は松下幸之助の信奉者でもなければ、彼の著作の愛読者でもない。私はキリスト信者であり、聖書の愛読者である。また松下幸之助の名言は聖書の受け売りと考える者である。実は、松下幸之助の思想基盤となっている江戸時代の思想家・倫理学者石田梅岩(1685-1744)の開いた石門心学の倹約の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方は、専門家の間では宗教改革者ジャン・カルヴァン(1509-1564)によって生み出されたカルヴァン主義商業倫理の日本版と評される。そしてカルヴァン主義とは他ならぬ聖書主義のことである。ちなみに松下幸之助はキリスト教主義の同志社大学から名誉学位を与えられている。

「会社にとっていちばん危険なのは、社長だ」・・・「教会にとっていちばん危険なのは、牧師だ?」 牧師は教会の経営者ではないが、ドキッとするような言葉が並ぶ。松下幸之助は、ビジネスで成功することよりも人間として成功することを重視している。経営者に必要なのは経営能力よりも人格であるとも強調している。それには私も賛同する。そしてそれは同時にキリスト教会にも言えることだ。キリスト者のゴールは、ミニストリーの成功(教会の量的成長)ではなく、各人がキリストの似姿に変えられることである(Ⅱコリント3:18;ピリピ3:10-14;Ⅰヨハネ3:2)。また牧師などの教会指導者の資質には人格が真っ先に問われている(Ⅰテモテ3:1-13;テトス1:5-9)。

私が言いたいのは、ノンクリスチャンでもわかることが、どうしてクリスチャンにわからないのだろうか?、ということである。 松下幸之助は「個々の人が幼稚であれば、幸いに一致団結しましても、その力というものは結局その範囲を出ないものと思うのであります」と言ったが、幼稚なクリスチャンがあまりに多いということだろう。どうしたら幼稚なクリスチャンから脱却できるかについては、すでに本ブログで述べたばかりである。

松下幸之助は長年にわたる想像を絶する苦労と不断の努力によってこれらの名言を生み出すに至った。しかし聖書を通してキリストを知るクリスチャンならば、この程度の言葉は子どもでも思いつく。松下幸之助を経営の神様のごとく信奉しているクリスチャンがいるならば、その人は子ども以下である。

松下政経塾ならぬ "キリスト聖経塾"へようこそ!

(※聖経とは中国語で聖書のこと)

2011年9月1日(木)の記事を転載

前回のブログで図星を指されてすっかりうろたえてしまったクリスチャンに贈る追撃ブログ。"ハリー・ポッター・シリーズ"ならぬ、クリスチャンの"ハリー・ボッテー・シリーズ"とでも名づけようか(※「張りぼて」=見かけは立派だが、実質の伴わないことやもの)。

これまで「今さら」というプライドが邪魔して見す見す成長の機会を台無にしてきてしまったあなた。怠け心からもたもたしているうちに後の者に先を越されて成長のチャンスをことごとくつぶしてきてしまったあなた。これがラストチャンスかもしれない。これを逃せば低レベルで陳腐で不甲斐ないクリスチャンのままエンドレスに甘んじ続けることになるやもしれぬ。

すぐに不機嫌になり、すぐに文句をたれ、すぐに取り乱し、すぐに泣きべそをかく・・・。ガキと呼ばれる所以。まだくちばしの黄色い証拠。

自己憐憫、自己卑下、自己嫌悪、自己義認、自己満足・・・。すべて自己にとりつかれた自意識過剰の自惚れ小僧に慢心小娘。

何十年経ってもガキのまま。万年幼稚な"クルシーチャン"のあなた。堂々巡りで埒が明かないドツボスパイラルにピリオドを打つ時が来た。

まずは以下の聖句を「成長」「おとな」といった言葉に着目しながら味読していただきたい。
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
(ローマ14:19)

兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。
(Ⅰコリント14:20)

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。
(Ⅱペテロ3:18)
成長することが命令されている。成長しないことは命令違反である。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
(エペソ4:11-16)
神はこの成長命令に必要なものをすべて備えてくださっている。あなたにはみことばの真理を説く教会が必要である。
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
(Ⅰペテロ2:1,2)
混ぜ物のない純粋なみことばを慕い求めなければならない。ただしその前に「すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨て」る必要がある。悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口があるなら、いくら純粋なみことばを取り込んでも成長は望めない。
あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
(コロサイ2:18、19)
キリストのからだである教会に物理的につながっていても(足しげく教会通いしても)教会のかしらであるキリストに霊的に結びついていないなら(個人的交わりを持たずに従順でないなら)やはり成長は望めない。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
(ヤコブ1:2-4)
成長を望む者は、試練というものを一気に成長を遂げる最大のチャンスと見る。成長を望まない者は試練の中で忍耐を強いられることを最悪の不幸と見る。
ここまで読んでムッと来た人、カッと来た人、ムカッと来た人は、自らの成長を拒む未熟者。心理学では「ピーターパン症候群(ピーターパン・シンドローム)」と呼ばれる精神疾患がある。ここで言う「ピーターパン」は人間的に未熟でナルシズムに走る傾向を持っており、『自己中心的』・『無責任』・『反抗的』・『依存的』・『怒りやすい』・『ずる賢い』というまさに子供同等の水準に意識が停滞してしまう大人を指す。ゆえにその人物の価値観は「大人」の見識が支配する世間一般の常識や法律を蔑ろにしてしまうこともあり、社会生活への適応は困難になり易く必然的に孤立してしまうことが多い、と言われている。私は人間の欠点を何でもかんでも精神疾患に結びつけ正当化することには反対しているが、教会の内外にピーターパン的クリスチャンが増殖していることは否むつもりはない。すぐに感情的に不快になる人は霊的に深い人ではないことは前回のブログでも紹介した。
愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。
(ヤコブ1:19-25)
図星を指されてムカッと来た人はみことばを素直に受け入れようとしない。なぜそうしないのか? それは一重に汚れや悪を捨て去りたくないからだ。そういう人は平気で自分を欺く。このことは自分には関係ないと自分に言い聞かせてスルーしようとする。自分自身に当てはめてへりくだるのではなく、他人に当てはめて見下すのである。みことばを実行する人は昔のままの自分を鏡に見る。みことばを実行する人はキリストの似姿に変えられた自分を鏡に見る。先週の説教の内容を忘れる人は間違いなくみことばを実行しなかった人だ。記憶力のせい、年のせいにして、忙しさのせいにして毎週のように祝福を逃す。それでも毎週欠かさず教会に通っている行為そのものに満足し、内心自分が立派で成熟したクリスチャンだとどこかで思い込んでいる。それもまた自己欺瞞、自己義認の罪である。

【神の前に見え透いた見栄】
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
(ガラテヤ5:26)

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
(ピリピ2:3)

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
(ヘブル4:13)

わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
(黙示録3:15-20)
何もかもお見通しの方の前で格好つけている場合ではない。どんなパフォーマンスをもってしてもあなたの裸の恥をカモフラージュすることはできない。

「教会のこの人のことはどうも生理的に受け付けない。教会であっても隣席してご飯なんか食べたくない。」 そういうあなたはイエスが吐き出したいほど生理的に受け付けてもらえない者かもしれない。


以下は、デニス・F・キンロー著『エマオの道で 365日の霊想』から抜粋。

体裁を整えようとすることからの解放 Ⅱコリント5:12-20

愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。第一コリント13:4

キリストが私たちを、ありのままでいられる飾る必要のない場所に置いてくださることは感謝なことです。いつでも仮面をかぶって生きている人々とつきあったことがありますか。何事に関しても周りのだれよりも自分を良く見せたいと思う人たちです。自分のことばかり考えていると、人は謙遜にはなれません。

多くの人が自分の体裁について子どもじみた考えを持っています。ここで私が言っている体裁とは服装や外見のことではありません。機会があれば他人を追い抜き、人々の前で面目がつぶれることを拒み、何でも自分が一番でなければ気がすまない、二番で満足することさえできないような人、こういう人を体裁を気にする人といいます。相手が身内であっても、ちょっと見下されただけで腹が立ち、居たたまれなくなることがよくあるでしょう。あらゆる社会的な営みや状況において、良く見られなければ気がすまないとしたら、それは私たちにとっても私たちの愛する者にとっても、耐えがたい束縛となります。

ですからパウロは、愛は誇らず、高ぶらないものだと諭しているのです。本来自分のことを二の次にしなければならないとき、自分の面子にばかりこだわって大切な人間関係を破壊してしまうことが頻繁にある、それが私たちの罪深さです。

<引用以上>


恥も外聞もなく悔い改めに精を出せ! 名を捨てて御霊の実を取れ!


【子どもじみたクリスチャンから脱却】
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
(エペソ4:17-24)

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
(コロサイ2:11)

しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
(コロサイ3:8-10)

主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
(ローマ13:14)
園児の制服を脱ぐ時が来た。成熟したクリスチャンの制服はキリストの義の衣である。


【クリスチャンの相互愛こそ成長のしるし】
兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。
(Ⅱテサロニケ1:3)
信仰の成長は目に見えるものだ。クリスチャン同士の相互の愛が霊的成熟度のバロメーターである。御霊の実は愛である。"有名無実"のクリスチャンではなく、"無名有実"のクリスチャンになろう。
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
(ヨハネ13:34、35)
クリスチャンを愛さない者はキリストの弟子として認められない。ただ教会に通い、聖書を学び、集会に参加し、奉仕する者がキリストの弟子なのではない。キリスト者を愛する者がキリストの弟子なのである。教会にも行かずいけしゃあしゃあとクリスチャン面して教会に通うクリスチャンを批判する評論家気取りの連中は論外だ。彼らは次の聖句を見落としている。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
(ヘブル10:25-27)

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
(Ⅰヨハネ4:20-5:5)
あるクリスチャンに対してあなたが愛を示さないなら(心の中で疎んじているなら)、事実上あなたはその人が神によって生まれた者ではないと断定したことになる。つまりあなたが愛さないその人のことをノンクリスチャンとしてあからさまに断罪したことになる。またはクリスチャンを愛さないあなた自身がひょっとしたら神から生まれた者ではないのかもしれない。

神を愛する者は神によって生まれた者であるクリスチャンを愛する。それは決して重荷とはならない。クリスチャンを愛することが重荷だと感じているなら、そもそもあなた自身が真にクリスチャンであるかどうかを疑わなくてはならない。クリスチャンは勝利者である。それなのにあなたは敗北感を感じているか? クリスチャンの証は敗北感からの解放である。とりわけクリスチャンを愛することにおいて、あなたがいつも敗北感に打ちのめされているなら、あなたはおそらく十字架の愛を実際に味わったことがないのであろう。

クリスチャンを愛さない者ははっきり言えば神を憎む者である。それは未熟者の幼児クリスチャンというよりも未信者の自称クリスチャンと呼んだ方が正しいのかもしれない。

いずれにしても悔い改めて、主イエス・キリストに立ち返る必要がある。あなたにはそのことが許されているし、あなたにはそれができる。悔い改めることも成長することも共に神の命令であるからだ。神はできないことは命じない。私たちが命令に従う決心をするなら、実行する上で必要のすべてが備えられる。

あなたは軽々しく「できない」と言ってはならない。神によってそうすることが許されていないなら、やりたくてもできないのだから。神によってそうすることが許されているのにできないと言い張るのは、分別のないガキの物言いであり、そのままでは決してそのみじめな状態から脱却することはない。

見栄っ張りの見識ぶった見掛け倒しの見苦しい子どもじみたクリスチャンのままで居座ることを今日で最後にしよう。今日が本当に最後の日かもしれないのだから。

2011年8月27日(土)の記事を転載

見回せばクリスチャンのガキが何と多いことよ。いい加減大人になれ! ただし、いい加減な大人はガキと同じだ。

教会の健全な成長はクリスチャン個々人の成長にかかっている。成長といっても2種類ある。「健全な成長」と「不健全な成長」である。前者は質的成長の伴う量的成長のことで、後者は、質的成長の伴わない量的成長のことである。両者とも見た目は大きいが中身が異なる。前者は成熟者の集団で、後者は未熟者の集団である。「類は友を呼ぶ」と言われるが、教会成長においてもそれは真理である。霊的成熟を目指す者はどこからとなく自然に神のことばを慕い求めて緑の牧場のような教会に集まってくる。自分が成熟することに関心のない者、つまり自分が世的に成功することを求める者にとって緑の牧場はこの上なく退屈な所である。やはりガキはゲーセンや遊園地のような娯楽施設でなければ楽しめない。このように神中心の生き方を望む者たちと自己中心の生き方を望む者たちは相容れないものだ。

質的成長は必然的に量的成長につながる。一方で、質的成長の伴わない量的成長というものもある。それは体ばかりが大きいガキの寄せ集めである。そしてそのような教会は必ず疲弊し、それほど長生きしないのが常である。

「子どものような信仰」と「子どもじみた信仰」には雲泥の差がある。救いにおいて子どものような信仰(ルカ18:17)が求められるが、救われたら子どもじみた信仰はあとにしなければならない。

子どもじみた信仰に甘んじている者よ、いつまでもメソメソ、ビービー泣くのをやめよ! 神の子どもの涙は神の御子の涙と同じでなければならない。

自己中学生の不良中年よ、いつまでも言い訳ばかりして罪を繰り返すのをやめよ! さもなければ人生を中途退学することになる。

幼児性丸出しのクリスチャンのガキどもよ、いつまでも他人のせいにして逃げ回るのをやめよ! おまえたちは十字架を避けている。十字架以外に救いがないのにそれをことさらに避けている。
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
(マタイ6:19)

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
(マタイ6:31)

そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。するとイエスは、『やめなさい。それまで。』と言われた。そして、耳にさわって彼を直してやられた。
(ルカ22:50,51)

イエスは彼らに答えて言われた。『互いにつぶやくのはやめなさい。』
(ヨハネ6:43)

目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。
(Ⅰコリント15:34)

主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。
(エペソ6:9)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
(ピリピ4:6 新共同訳)

愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
(Ⅱテモテ2:23 口語訳)

あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。
(Ⅰサムエル2:3 口語訳)

レビびともまたすべての民を静めて、『泣くことをやめなさい。この日は聖なる日です。憂えてはならない』と言った。
(ネヘミヤ8:11 口語訳)

争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。
(箴言17:14)

あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。
(イザヤ2:22 口語訳)

また反逆の家であるイスラエルの家に言え。主なる神は、こう言われる、イスラエルの家よ、その憎むべきことをやめよ。
(エゼキエル44:6 口語訳)

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。
(詩篇46:10)
霊的に成熟している人は情緒的にも成熟している。イエス・キリストを見れば一目瞭然である。情緒不安定な人は霊的にもアップダウンの激しい不安定な人である。神を個人的に知っている者が取り乱すことはほとんどない。したがって霊的成熟度は情緒の度合いによって測ることができる。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
(ヨハネ14:1)
<情緒的な幼児>

身体が未熟な幼児期のように、人々に関心を持って世話をするよりも、人々が自分のことを気遣ってくれるよう望んでいる。自分自身の感情を健全な方法で表現したり、味わったりすることに難しさを覚えることがある。また、他の人の感情を理解することも難しい。ほとんどの場合、直ちに満足を得たいという欲求に駆られていて、人々を自分の必要を満たす道具として利用してしまい、自分の言動が彼らにどのような影響を与え、あるいは苦痛を与えているのかに気づかない。人々は、配慮のない、人の気持ちのわからない、自己中心な人であると見ている。


<情緒的な子ども>

身体がいまだ子どものように、人生が自分の願うようなものとなり、また欲しくて必要なものがすべて与えられているときには、満足し、情緒的にも安定している。しかし、失望、ストレス、悲劇、怒りが自分の世界に入ってくるや否や、内側で感じていることをあらわにする。意見の相違を個人的な攻撃ととらえ、簡単に傷ついてしまう。自分の思うようにいかないときには不平を言い、不機嫌さをぶつけ、人から身を引き、操作し、ぐずり、皮肉っぽくなり、仕返しをする。自分は何を必要とし、彼らから何を期待しているのかということについて話し合うときなど、冷静に、成熟した愛を持って語り合うことが難しい。


<情緒的青年>

身体が青年期のように、大人の社会に適合する言動がどういうものであるかを知っている。建設的な批評を受けると、内心恐れおびえている。そして、すぐに自分を守ろうとする。密かに、人に与えた愛の行いの記録をつけていて、あとで何かを返してもらおうとする。問題が生じたときには、自分の過ちを認めるが、相手のほうがもっと責められるべきであることを証明して、そちらのほうが悪いことを示そうとする。人々の痛み、失望や必要に耳を傾けようとしたとしても、自分自身が生き延びることに必死なので、自分のことで精いっぱいになってしまい、聴くことができない。


<情緒的成人>

人々を変えようとせずに、また批判的になることなく尊敬し、愛することができる。配偶者、両親、友人、上司、また牧師に対して、その人が自分との関係において自分の必要に応えられるよう完全さを要求することはない。人々のありのままを、すなわち、長所も短所もひっくるめてそのまま愛する。また彼らが自分に何をくれるのかとか、どのように行動するかといったことと関係なく愛し、感謝することができる。自分の思い、感情、目標、また行動に責任を取る。ストレスがあるときには、被害者意識に陥ったり責任転嫁をしたりしない。自分の信条や価値観を、敵対することなく、違う意見を持っている人々にも語ることができる。自らの限界、長所や短所を正確に評価することができ、また自由に人々とそれらについて語り合うことができる。自分自身の感情や心の動きに親しんでおり、人々の感情と共鳴することができる。イエスに完全に愛されていることを心で実感することができ、人々に対して自分を顕示する必要も全くない。

*ピーター・スキャゼロ、ウォーレン・バード著『情緒的に健康な教会をめざして』(いのちのことば社)から引用。


「これはみんな私に当てはまる・・・」。「ああそうだよ。どうせ私はガキだよ!」と開き直ったら終わりである。なぜならそれで成長停止宣言をしたことになるからだ。「これは私個人への当てつけだ!」と被害者妄想を抱けば、感情的になるだけでまともな思考も停止する。どんなに信仰歴が長くても、しょっちゅう情緒に安定を欠くなら、あなたは未だ成熟していない。自分はそれなりのできたクリスチャンであるという自負心も被害者意識から来る妄想に過ぎない。それもまた信仰歴が長いだけの未熟なクリスチャンのありがちな姿である。

「信仰歴が長い未熟者」という言い方には語弊があるかもしれない。厳密にはそれはイエスを主と信じたものの、いつの間にか自分が主に取って代わってしまい、クリスチャンとは名ばかりの自分よがりな肉的生活を長く続けている者のことである。それは到底信仰生活と呼べるものではなく明らかに不信仰生活である。したがってここで言う「信仰歴」とは単に信仰を与えられてから現在に至るまで経過してきた年月のことだ。未熟者はこの年月の大半を信仰によって生きてこなかった者のことである。
高齢者が皆成熟しているわけではないことは、昨今高齢者犯罪が急増している事実によっても明らかである。


■『高齢者犯罪、日本が突出 警察庁も実態調査』
(神戸新聞 2006年12月21日)

日本の刑法犯に占める高齢者の割合が、韓国や欧米など他の先進国に比べて著しく高いことが二十日までに、慶応大法学部・法務研究科の太田達也教授(刑事政策・被害者学)の研究で明らかになった。本格的な高齢社会を前に、警察庁も実態調査を都道府県警に指示し、対策作りに乗り出した。

太田教授は、韓国、台湾政府と警察庁の統計を可能な範囲で比較。二〇〇〇-〇四年の高齢者人口十万人当たりの刑法犯の人数をみると、日本は八十一人から百四十八人と増加し、増加率は83%に達した。

日本よりも速いペースで高齢化が進むとされる韓国(六十一歳以上)は、四百二十三人から五百五十三人と、刑法犯数は日本より圧倒的に多いが、増加率は31%。台湾(六十五歳以上)は、百二十三人から二百六人の間で増減を繰り返している。

刑法犯総数に占める高齢者の割合は、〇四年で、日本が9・4%で、韓国3・7%、台湾1・5%に比べ飛び抜けて高くなっている。

また、米国については、連邦捜査局(FBI)の統計資料が不十分なため正確な数値は出せないが、殺人を犯した高齢者に関しては、日本の方がアメリカを上回っているというデータもあるという。

太田教授は「世界で最も高齢化のスピードが速い国とされる韓国だけでなく、世界的に高齢化が進んでいるスウェーデンやアメリカなど欧米の諸外国と比べても、高齢の犯罪者の増加率は日本よりもはるかに低い」と指摘する。

こうした実態を警察庁も重視。同庁の「警察政策研究センター」は研究を進めている。全国の都道府県警に対し、高齢の刑法犯の詳細な犯行動機や家族構成などのデータの提出を求めており、本年度中にも分析する方針だ。

<引用以上>


今、日本には未熟な高齢者が横行している。日本の教会はどうだろうか? 「亀の甲より年の功」―教会において未だ通用することわざであろうか?


信仰歴が長くても肉的クリスチャンのままの人がいる。
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、『私はパウロにつく。』と言えば、別の人は、『私はアポロに。』と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
(Ⅰコリント3:1-4)
以下はロゴス・ミニストリーの明石清正さんによる解説(清正さんには私のブログやMGFのホームページからもよく引用していただいているので、私もここに彼のものを紹介させていただく)。

肉に属する人がいます。彼らは、キリストにある幼子とあるように、クリスチャンであります。イエス・キリストを自分の救い主として信じています。しかし、御霊に支配されるのではなく、肉に反応しています。自分自身をすべて主におささげしていない人です。ですから、救われているのですが、その救いの中で憩うことをしていません。

パウロは、そのような人たちを、「幼子」と呼んでいます。私たちはイエスさまを信じたときに、新たに生まれました。そして、私たちはキリストにあって成長し、成熟へと向かいます。私たちがイエスさまを信じたばかりのとき、私たちはどのように祈ればよいかよく分かりません。また、聖書もよく分かりません。克服しなければいけない古い習慣をまだ持っています。けれども、彼らの祈りはとても新鮮であり、聖書の受け止め方もとても素直で純粋です。彼らは新しく生まれたばかりの幼子であり、そのような彼らを見ることは他の人たちにとって喜びです。しかし、イエスさまを信じてから20年たっても、同じような状態であったらどうでしょうか。自分に対する、神のみこころが何であるかがまだ分かりません。聖書もあまり分からず、聖書を読みません。まだ肉の問題を抱えて、それを克服できずに苦しんでいます。20年が過ぎているのに、自分の生活からどのような実が結ばれているかを、見ることができません。このような状態は悲しむべきことであり、実にコリントにいる人々は、まだキリストにある幼子だったのです。
肉的なクリスチャンは、キリストについての奥義、神のうちに隠された知恵やご計画を聞き取ることができないという問題があります。他のクリスチャンたちの証しを聞くことは好きなのかもしれません。また、「幸せな結婚生活のために」とか、「自分を愛するために」とかいう、ハウツーの本を好んで読んでいるかもしれません。けれども、キリストとはどのような方なのか、キリストがどのような働きを行なわれているのか、キリストの愛についての深さ、高さ、長さについて、無関心であります。聖書の学びによって、自分の生活にそれが、どのように当てはまるのかがよく分からない人たちのことです。

けれども、私たちが成長するためには、神のみことばを味わなければいけません。私たちは、人々の証しを聞いて、霊的に成長することはできません。それによって励まされ、慰められることはできるかもしれませんが、霊的には成長できないのです。なぜなら、神はある人に対して行なわれる働きは、必ずしも自分自身に対しても同じことを行なわれるとは限らないからです。私たちが、神のみこころを個人的に知るには、ただ神のみことばを学ぶことによってであり、神のみことばを信仰によって受け入れることによってのみです。

肉的なクリスチャンのもう一つの問題は、ねたみや争いがあることです。霊的な飢え渇きがあるのですが、その心の満たしを、主の前に静まって、主との深い交わりの中で得るのではなく、周りのクリスチャンに不平不満をぶつけたり、批判をすることによって満たそうとします。自分の言いたいことを相手にぶつけて、みなが自分に同意してもらうまで主張しつづけます。それは、主との交わりがまだ浅くて、心情的なもの、感情的なものになっているからです。もっと深く、知性、感情、意思のすべてを含む全人格的なものにまで、私たちは主との交わりを深めなければいけません。そして、肉的クリスチャンは、分派心が強いことが特徴になっています。

「あの先生はこんなにすばらしいのに、なんだこの人は、だめだなあ。」と、ある奉仕者にくみして、他の奉仕者を批判します。キリストのご人格ではなく、伝道師や牧師の人柄、その伝道や宣教の仕方、そうした枝葉末節なことに関心を置いて、分派を作っています。

このように、肉に属するクリスチャンは、霊的に幼子であり、神の奥義について無理解、無関心であり、そして、ねたみや争いあり、分派心がある人のことです。そこでパウロは、彼らの過ちを、いろいろな説明によって正そうとします。

<引用元 http://www.logos-ministries.org/>


さて、今度はヘブル人への手紙を見てみよう。著者は不明とされているが、使用されている用語がパウロの手紙にも度々共通して見られる。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。・・・
(ヘブル5:12-6:1)
教師になっていなければならない「年数」というのはいったい何年くらいを指すのか? 20年? 18年? ユダヤ人の成人男子であれば13歳。ユダヤ人のラビ(律法の教師)であれば30歳。年齢ではなく年数で考えれば、キリストの弟子たちは3年半で使徒として世界中に派遣された。いずれにしてもクリスチャンは信仰歴を重ねれば重ねるほど成熟度を増すことが求められている。戒めの言葉が示唆しているようにヘブル人クリスチャンの中には信仰歴をやたら鼻にかける未熟者たちが多かったのだろう。


パウロは監督(牧師)の資格に以下の条件を要求している。
・・・信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
(Ⅰテモテ3:6)
信者になったばかりの人は、「高慢になって、悪魔と同じさばきを受ける」可能性が高い。裏を返せば、信者になって長い人は、当然のことながらへりくだってキリストに似た者として成熟していることが想定されている。高慢の罪は未熟者のしるしであり、時にクリスチャンを悪魔的にする。

あなたの信仰歴は何年か? 信仰歴の長さと成熟度はちゃんと見合っているだろうか?
再びパウロの手紙に戻る。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
(ピリピ3:13-15)
●成人=うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている人。

●ガキ=過去に捕らわれ、常に後ろ向きで、自分の欲求を満たすために、目標を目ざして一心に走っている人。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(ピリピ3:17-21)
●成人=天国志向で携挙を待ち望む人。

●ガキ=地上志向で現世利益ばかりを求める人。


教会はキリストにある成人を育てる訓練所とも言える。ガキはここで訓練される。ガキでも訓練を受ければ成熟した大人になれる。ガキであればこそ教会に通ってほしい。
「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
(Ⅰコリント13:11)
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
(コロサイ1:28)

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
(ガラテヤ4:19)

また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/『わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。
(ヘブル12:5-13 口語訳)
子ども扱いされようとへこたれるな! ガキ呼ばわりされようと腐るな! キリストにある者ならば成熟目指して決起せよ! 主によって奮い立て!
ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
(Ⅰサムエル30:6)

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
(詩篇42:11)

あなたは、一瞬のうちに、完全になることはできません。その瞬間、あなたはクリスチャンになりますが、成熟したクリスチャンになりません。キリストがあなたの心にはいり、あなたをきよめ、ゆるすことは、まさに一瞬のうちになされますが、あなたの品性が、キリストの意志に従って変革、形成されるのには、一生かかるかもしれません。
(ジョン・R・W・ストット)
※この記事は文字数制限のため元記事を2分割し投稿しています。この記事は後半です。


 以下に三谷和司著『賛美の回復 聖書が教える賛美とは』の中から牧師のイメージに関する興味深い文章を抜粋する。

三谷和司牧師についてウィキペディアによると・・・

 三谷和司(みたに かずし、1956年 - )は神木イエス・キリスト教会の牧師。ノア・ミュージック・ミニストリーの代表である。ノア・ミュージック・ミニストリーで、日本の教会に日本人によるオリジナルの新しいコンテンポラリー・ワーシップ・ミュージックの運動を広めている。

経歴

 •1956年 カネボウ薬品の元会長三谷康人と神木イエス・キリスト教会の創設者三谷君子の次男として神戸市に生まれる。

 •1983年 関西学院大学神学部を卒業した後、米国テキサス州ダラスのクライスト・フォー・ザ・ネイションズを卒業した。三谷紀恵が讃美グループ「ノア」を結成する。

 •1984年9月 教会堂を建設する。

 •1985年 教会を「神木イエス・キリスト教会・家の教会」として宗教法人登録をする。当時の代表は三谷君子、後に三谷和司が主任牧師になる。

 カネボウ薬品の元会長三谷康人さんと君子さん夫妻は日本キリスト教界では有名。妻の君子さんは牧師でもある。ちなみに、女性牧師が非聖書的であることは本ブログで以前詳しく述べた。

『女性牧師は聖書的か? 女性牧師是非問題を日本人牧仕がみことばの剣で一刀両断』
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/mgfchurch/view/20090928

 ただ私はノア・ミュージック・ミニストリーの姿勢を高く買っている。ノア・ミュージック・ミニストリーは、1992年からSGM(Sharing Gospel Music)という新しい著作権の概念のシステムを提唱し始めた。これは、ノアは自らの著作権を放棄して、著作物を誰でも自由に使用、コピーできるという新しいシステムと言われている。私の説教はすべて無料で、改変せず、販売目的でない限りコピーも自由である。SBM(Sharing Bible Message)システムとでも言おうか。

 さて、話を『賛美の回復 聖書が教える賛美とは』という本に戻すが、結論から言うと本書の内容がすべて「聖書が教える賛美」とはお世辞にも言えない。本書の巻頭には、聖書キリスト教会主管牧師・尾山令仁氏(現代訳聖書の著者)から推薦の言葉が贈られているが、それでも内容には誤りがある。以下は本書における三谷和司牧師の”牧師論”と言える。

牧師に対するイメージが鍵

 私は、肉の力によって行ないを保っている人たちは、皆共通して、牧師先生に対して間違った、批判的なイメージを持つということに気づきました。聖書には、「指導者たちは、善を行う者に対してではなく、悪を行う者に対して恐れとなるからである」(現代訳)とあり、まさにこれにあたります。指導者に対して正しくないイメージを持つのは、それはその人が悪を行っている時、すなわち肉の力で行動している時です(ローマ13章3節)。

 聖書では、何度となく牧師先生に対しての従順や尊敬を教えています。
兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。
(第一テサロニケ5章12,13節)
 牧師先生に対する従順は、牧師先生が人格的に立派だからという理由ではありません。その務めのゆえに尊敬し、従いなさいと、この御言葉は教えています。でもこの教えに対して「従いたくない」という感情が出てきたら、それは肉の思いが表面化したものです。肉の思いというのは、権威に逆らおうとする力ですから、権威ある者に対しては特に出やすいのです。

 肉の思いは誰にでもありますが、その思いが出てきた時、それに従うかどうかがクリスチャン生活の分かれ道です。もし、神様の御言葉に対して、この言葉は気に入らないから従わないというなら、それは肉に従っている行動です。

 神様は私たちに神様が命じたことに対して、どのような感想を持つかなどということは聞いていません。ただ実行するかどうかを聞いているのです。牧師先生があなたの好みに合って、素敵な人なら従うというなら、それは自分の肉(人間的基準)に、従う根拠をおいているのであって、信仰にはまったく根差していないのです。

 イエスは主であるという告白を本当にするなら、その意味を正確に悟るべきです。主ということは、ただ神様というだけではなく、私たちの唯一の絶対なる王としての権威を認め、それに従うしもべであるという告白でもあります。しもべは、自分の主人に心から従うのが務めです。その主が、牧師の務めをしている人には、心から尊敬をして従いなさいと言っておられるのです。主が言われるから心から従う、これが生きた信仰の態度です。

 余談になりますが、もしあなたが聖書の中に従いたくない御言葉を見つけたならば、それは自分の中の、砕かれなければならない肉の思いを見つけたことになります。それはある意味ではとても素晴らしい発見でもあります。ただし、素晴らしい発見をするためには、こう祈らなければいけません。「主よ、今あなたの御言葉に従いたくない自分の肉の思いを発見しました。どうぞ私の肉の思いを砕いて下さい」。ですから聖書を読む時、おおいに自分の肉の思いを見つけだし、主に砕いていただきましょう。

 さて、生きた信仰を持っている人は、御言葉に従って、牧師先生が神様に立てられた器であるとの正しいイメージを持とうとします。それはまさに、牧師という務めに対する絶対的尊敬です。逆に肉の思いは、牧師先生の人間性を見て、御言葉が教えるイメージではなく、自分の判断から来る自分勝手なイメージで牧師という務めをとらえようとします。

 ですから、牧師先生に対してどのようなイメージを持って行動しているかで、今自分が行っていることが肉によるものなのか、生きた信仰によるものなのかを確認することが簡単にできるというわけです。

 そこで私が考案した、肉の思いがどれほど自分の行動を支配しているかを調べる「牧師先生に対するイメージチェック」を紹介します。次に示すチェックリストの問いに対して「はい」の数が少なければ少ないほど、あなたの信仰は生きた純粋な信仰だといえるでしょう。もし、「はい」の数が多くて、牧師先生を奴隷のように思っているならば、どんなに多くのりっぱな行ないができていても、それは肉の力によるものと考えて下さい。一日も早い悔い改めが必要です。

「牧師先生に対するイメージチェック」

 1、 牧師先生の給料が安いと安心する
 2、 牧師先生が教会堂の掃除をしているのを見ると当然だと思う
 3、 まず自分のために祈る
 4、 牧師先生がゴルフをするなどけしからんと思う
 5、 牧師夫人が生意気に思える
 6、 牧師先生が自分よりボロい車に乗っていると心が落ち着く
 7、 牧師先生の態度が時々気に入らない
 8、 牧師先生はあまり頭が良くないと思う
 8、 牧師先生のメッセージが他の先生のよりおもしろくないと思う
 10、牧師先生は長期の休みなど取るべきではないと思う

 「はい」が10の 人・・・・・・奴隷
      7~8の人・・・・・・自分の部下
      4~6の人・・・・・・便利屋さん
      1~3の人・・・・・・学校の先生
      0の  人・・・・・・聖書の教える牧師

(・・・・・・と牧師先生をイメージしている)

「解説」

 これらの質問の意図を説明します。特に1番、4番、6番、10番の問いは、牧師先生の生活の豊かさに関するものです。例えば、牧師先生がゴルフをすることに対して、悪いイメージを持つとします。でも、そういう人でも社長さんがゴルフをすることには、そんなに悪いイメージを持たないでしょう。むしろ社長なら当然というイメージがあります。

 こうした豊かさに対するイメージというのは、尊敬に比例するためにそうなるのです。ですからこれらの質問は、あなたが「聖書の教える尊敬」を、牧師先生にどれほど持っているかを見る上で、とても役に立つものです。その辺りのことをもう少し詳しく解説しましょう。

 世の中には大変尊敬される務めがあります。例えば大学教授、医者、弁護士、社長、国会議員など色々あるでしょう。そうした社会的に尊敬される務めに対しては、その人の生活は豊かであって当然であるというイメージがあります。そして人々は、そのような人の話は真剣に聞きます。尊敬すればするほど、その相手の言葉はあなたにとって価値あるものになるからです。

 すなわち、牧師先生に対して貧しいイメージしか持てなければ、牧師先生の言葉はあなたにとって、イメージ通りの貧しいものにしかならないというわけです。逆に、牧師先生に対する尊敬のイメージができればできるほど、言葉の一つ一つが、あなたにとって生きたものとなります。
 聖書では、牧師先生に対するイメージをこう教えています。
よい指導をしている長老は、それに見合う十分な尊敬と報酬を受けてよい
(現代訳 第一テモテ5章17節)
 ここで尊敬と、報酬は比例することを教えています。そしてその尊敬は十分なものであるべきと言っているのです。また新共同訳では、「十分な尊敬と報酬」の個所が、「二倍の報酬を受ける」と書いてあります。さらに新改訳では、「二重の尊敬を受ける」とあります。

 この務めは、普通の人の倍以上の尊敬と報酬に値するというのです。長老に対してこれだけの豊かなイメージを持つように勧めているのですから、ましてや牧師先生に対する尊敬と報酬のイメージは、どれほど豊かなものであるべきでしょうか。この世の医者や弁護士にまさる尊敬と、豊かなイメージを持つことを、聖書はこのようにはっきりと分かる言葉で教えてくれています。

 主がお立てになった、最初の牧者というべきアブラハムに対して、主はこう言っておられます。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
(創世記12章3節)
 アブラハムを豊かに祝福すればするだけ、それに比例してその人を祝福すると言われたのです。このように主は、昔から一貫した考えを示していることが分かります。それは神の言葉を、人々がちゃんと聞くために必要だからです。

 でも私たちの肉の思いは、牧師先生を自分より貧しくすることによって、私の生活の方がまだましなんだという肉の安心を得ようとし、また、耳の痛い話など聞きたくないという思いから、牧師先生の欠点ばかりを見つけてイメージを下げようとします。

 しかし、生きた信仰による思いは、牧師先生の現実の生活や人格がどうであろうと、少しでも聖書が教える豊かなイメージを見ようとし、牧師先生の言葉を通して、神様の恵みにあずかりたいと切に願います。このように生きた信仰の目は、決して現実の牧師先生からイメージを持とうとはしません。あくまでも聖書の教えに従って、正しいイメージを持とうとするのです。

 もし総理大臣がボロい車に乗っているのを見たなら、この総理大臣は貧しい人だと人々は思うでしょうか。決してそんなことはありません。豊かなのに、謙遜にもわざわざボロい車に乗っていると思います。

 イエス様もエルサレムに入城される時、ロバに乗りました。イエス様はロバに乗られたから貧しかったと、私たちは思うのでしょうか。決してそんなことはありません。イエス様は大変豊かな方で、見たこともないような素晴らしい馬車で入城することもできたにもかかわらず、わざわざ私たちに合わせてロバに乗られたと思わないでしょうか。ロバに乗られても、イエス様に対する豊かさのイメージは決して変わるものではありません。

 同じように牧師先生の現実の生活を見て、それが決して豊かでないものであっても、神様のメッセージを伝える主の弟子であることには変わりはありません。あくまでもイメージじゃその務めから来るものです。社長という言葉からイメージは、その務めのゆえに作り出されるイメージであって、社長の個人的人格や私生活とは関係のないものです。

 実際は、日本の牧師先生方はたとえ豊か財産を手に入れられる状況になったとしても、それを自分のために使おうとはなさいません。むしろ伝道のために喜んで捧げて使いますから、一般の人よりは貧しい生活をしているように見えるでしょう。また、教会堂の掃除も、良き手本となるために、皆がしないので率先してされる牧師先生も多くおられるでしょう。さらにまた人間的に見ると多くの弱さ、欠点だけが目につくかもしれません。というより、すべての人はまだ完全にされておらず、完成に向けて工事中の身でありますから、探せば牧師先生と言えども、いくらでも欠点は見つけられるでしょう。でも、そうした肉の目がもたらす罠にどうか落ちないで下さい。

 生きた信仰かどうかを確認する、とても簡単な方法を説明しました。そして、それを調べる鍵が、牧師に対するイメージであるということをお話ししました。どうか、牧師先生の誕生日や、結婚記念日ぐらいは覚えて、心からのカードや贈り物ができるくらいの信徒になって下さい。そうした特別な日というのは、自分の信仰が生きたものか、肉によるものかが具体的に確認できる素晴らしいチャンスです。

<引用以上>

 「牧師先生に対するイメージチェック」はいかがであったか? 一応私もやってみた。私は牧師なので私の牧師観をもって答えてみた。この結果が私自身のセルフイメージになるとは思えないが、とりあえず以下の項目にひっかかった。

 2、 牧師先生が教会堂の掃除をしているのを見ると当然だと思う
 4、 牧師先生がゴルフをするなどけしからんと思う
 7、 牧師先生の態度が時々気に入らない
 8、 牧師先生はあまり頭が良くないと思う
 8、 牧師先生のメッセージが他の先生のよりおもしろくないと思う
 10、牧師先生は長期の休みなど取るべきではないと思う

 以上「はい」が6つある。三谷牧師によれば、4~6の人は「便利屋さん」というイメージで牧師(自分?)を見ているということになる。私は便利屋のアルバイトをしながら牧師をしている人を知っているが、牧師に便利屋のイメージを重ねることはそんなに悪いとは思えない。便利屋は、草刈、雪かき、片づけ、送迎、引越し、買い物、ベビーシッター、ペットシッター等を頼まれる。それは牧仕の私の日常だ。頼まれることもあるが、率先してやることもある。私の場合はアルバイトではなくボランティアである。

 2に関して言えば牧師はしもべであるから当然である。牧師は「教会に仕えるしもべ」(Ⅱコリント4:5;コロサイ1:25)と呼ばれている。19世紀世界最大の教会を牧会していたスポルジョンも会堂の掃除をしていたし、私の牧師でカルバリー・チャペルの創立者のチャック・スミスもトイレ掃除やゴミ拾い率先して行っている。私は教会堂の掃除をしない牧師は不自然だと思う。だからと言って信徒が掃除をすべきではないということではない。

 4に関して言えば、高いお金を払ってゴルフをするのは問題であって、ゴルフというスポーツ自体問題ではない。私はバイブル・カレッジ在学中、夏休みにゴルフを楽しんだことがある。アメリカだったので安かった。私は以前キャディーの仕事をしたことがあるが、仕えることを忘れた牧師にはぴったりの仕事だと思う。ちなみに私は「牧仕」という名称を使っている。

 7に関して言えば、牧師の態度がしょっちゅう気に入らないなら問題だが、時々ならさほど問題ではないだろう。牧師も罪を犯す。ただしあまりにも不適切な態度が常態化しているなら、本当にその者が牧師として召されているかどうか検証しなければならない。場合によっては新生したクリスチャンかどうかも疑わなければなるまい。スポルジョンは、牧師志願者に対し、まず新生すること、回心して救われていることが牧師の第1条件であると説いた。これは救われているはずの牧師志願者の中に回心していない者が多かったことを示唆している。以下の引用は、彼がパスターズ・カレッジで牧師志願者に語った言葉である(『牧会入門』より)。
新生していない牧師は、またこの上なく有害である。不信仰をもたらすすべての原因のうちで、神を信じない牧師が第一位を占めるに違いない。

多くの説教者は今、地獄にいる。聴衆に向かって、幾度も幾度もそこへ行くことがないように細心の注意を払えと警告した説教者たちが地獄にいるのである。
 8に関して言えば、それは私には事実であって率直な意見として悪い気持ちはない。頭が良くなくても主に用いていただけて本当にありがたい。ただ「主に栄光あれ!」と叫びたい。

 8に関して言えば、おもしろいという意味が“笑い”であるなら、そういうこともあるだろう。私は関西出身の牧師のトークや熟練した牧師のオヤジギャクには到底太刀打ちできない。

 10に関して言えば、牧師が重病、重傷でも負わない限り、長期の休みは考えられない。なぜなら、羊飼いである牧師は羊相手に年中無休が当たり前だからだ。無論、聖書の定めるように最低でも週に1回安息日(休日)を守ることは必要だ。また時に短期休養により心身ともにレフレッシュをはかる必要もあるかもしれないし、家族のためにもバケーションをとるべきだ、と私は考える。これらは長くても1週間程度、頻度は多くても年に数回であろう。
 三谷牧師は、前掲書の中で実生活がどうであれ、人格がどうであれ、とにかく牧師ならば誰でも尊敬すべきだ、と書いている。確かに米国や韓国の教会と比べれば、クリスチャンが希少種の日本では牧師に対してそれほどの敬意は払われていないのが実情である。「自分たちが牧師一家を食わしてやってるんだ。もうこれ以上子どもを増やさないでもらいたい」などと放言する高飛車な教会役員の話もよく耳にする。その一方で、ふんぞりがえった強権的な牧師もいて、信徒やスタッフを自分の小間使いのようにあしらう不届き者もいる。

総理大臣というのは偉いんだが、総理大臣の役目を果たさなきゃ偉くないんだ。
(本田宗一郎)
 三谷牧師は、第一テサロニケ5章12,13節の聖句を取り上げて「牧師の務めのゆえに尊敬」すべきだと言われるが、私には「牧師の務めのゆえに」という言葉を「牧師の肩書きのゆえに」という意味に勘違いされているように聞こえる。牧師の務めは牧師の人格と実生活に裏打ちされるものである。逆に言えば、牧師の人格と実生活が堕落しているならば、彼の務めは必然的に逸脱したものになる。事実昨今日本各地の教会の牧師がセクハラ、パワハラ、金銭スキャンダル、セックス・スキャンダル等で相次いで訴えられ、教会は分裂し、マスコミにも取り上げられ大問題となっている。もし本当に牧師の務めというものを聖書から正しく知るなら、牧師の務めと牧師の人格は決して乖離しないことがわかるだろう。

 この点について再びスポルジョン牧師にも語ってもらおう。
教役者は平均的クリスチャンと同じであることに満足していてはいけない。成熟し、進歩意した信者にならなければならない。なぜなら、キリストを宣べ伝えることは、本当に『最も精選されたわざ』と呼ばれるべきものであるからである。

もし自分の使命にふさわしい者であることを実証しようとするなら、神に非常に近い生活をする必要があるのである。

あなたがたの霊的退歩によって、あなたがたの聴衆は、一人残らず多かれ少なかれ損害を受けることになろう。

教役者は、その教区の標準時計のようなものである。多くの者が、彼に時間を合わせる。もしそれが不正確なら、多少でも誤った方向に行ってしまうだろう。彼には、自らが引き起こすすべての罪に対して大きな責任があるのである。

教役者は、その人格のあらゆる点において、その牧会活動と一致するように心がけなければならない。

私たちの人格のほうが、私たちの語ることよりももっと説得力を持っている。

説教している時、一時的には教役者であるが、講壇から下りたとたんに教役者でなくなる。真の教役者は常に教役者である。

教役者の生活は、人々をキリストに引き寄せる磁石であるべきである。もし説教者の生活を見て、人々がキリストから遠ざかるようなことがあれば、それはまことに悲しむべきことである。

もしあなたが神に似た者であれば、人々は、あなたに似るように努力することであろう。

『神の栄光を最高度に表するように行動すること』―これこそあなたの歩むべき指標である。

教役者は、小さなことでも、その生活においてその職務と一致したものであるよう注意しなければならない。

キリストの教役者たる者は、その舌と心と手を一致させなければならない。
<引用以上>


 牧師として良い務めを果たす者は良い人格の持ち主である。イエスは良い牧者は羊のためにいのちを捨てる、と言われる(ヨハネ10章参照)。またイエスを愛する者がイエスの羊を飼う資格がある、と言われる(ヨハネ21章参照)。牧師の現実の生活や人格を度外視してその務めのゆえに尊敬せよ、というのは盲従を強いるのと同じだ。実際には召命を受けていない名ばかりの牧師、偽牧師もはびこっていることを知らなければならない。牧師の肩書きのゆえに尊敬することは悪いことではないが、偽者が牧師を名乗っている場合もあるから要注意だ。牧師の肩書きは通信教育でも簡単に取得できる。
 パウロが第一テサロニケ5章12,13節において語っている務め(ミニストリー)とは・・・
私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。
(Ⅱコリント6:3-10)

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1:25)

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
(Ⅰテモテ3:2-7)
 監督=牧師の資質に問われる必須条件はすべて人格に関することだ。唯一技能で問われていることはみことばを教える能力だけである。パウロは、人格に問題があって現実生活がなってない人は牧師にふさわしくないと明言している。それなのに三谷牧師は、牧師のイメージは社長という肩書き同様「個人的人格や私生活とは関係のないもの」と主張している。どうも三谷牧師は父が大企業の社長で母が牧師であったことから牧師と社長を同列に並べて考えるくせがあるように思う。

 なぜ牧師が尊敬されるか? その肩書きのゆえではない。その人格・品性に裏打ちされた務めのゆえである。イエスを見れば一目瞭然だ。教えや奇跡も優れて素晴らしいが、その卓越した人格・品性のゆえに比類なきお方として尊ばれている。
ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。
(ピリピ2:28、30)
「彼」とはパウロの同労者エパフロデトのことだが、彼を尊敬すべき理由としてパウロは単に彼がキリストの仕事を担っていただけでなく、それを命がけで行なっていたことを強調している。
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
(Ⅰコリント4:16、17)
 「キリスト・イエスにある生き方」、つまり牧師としての実生活が重要視されている。教えと生き様がマッチしていることが忠実な者であるとの証しとされている。
エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。
(エズラ7:10)

 エズラは聖書を学び、それを教えたのではなく、実行したことを教えた。イエスのスタイルも同じである。必ず模範をもって教えられた(ヨハネ13章参照)。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
(ピリピ3:17)

あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
(Ⅰテサロニケ1:6)
 牧師は大牧者であるキリストに似る者でなければならない。

また三谷牧師は、アブラハムを最初の牧者と見なし、創世記12章のアブラハム契約を牧師を祝福すべき根拠として挙げているが、これもいただけない。まずアブラハムは牧師ではなかった。確かに羊飼いではあったが、最初の者ではない。強いて言えばアベルが最初の専業牧者であろう。

 さらに三谷牧師は、イエスの勝利入城の場面でロバに乗ったのは「わざわざ私たちに合わせてロバに乗られた」と解説しているが、それも勝手なイメージに過ぎない。雌ろばの子に乗ってエルサレム入城されたことは、ゼカリヤ書9章9節のメシア預言の成就という目的であった。その聖句ではロバに乗るメシアは柔和でへりくだった王として描写されているのであって、「わざわざ私たちに合わせて」なんてことは示唆されていない。加えて、三谷牧師は「ロバに乗られても、イエス様に対する豊かさのイメージは決して変わるものではありません」と述べているが、イエスはご自分で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ8:20)と語られている。これは豊かなイメージではなく、むしろ動物におとるホームレスのイメージだ。


【牧師の本当のイメージ】$「MGF牧仕のキリストバカ一代」補完ブログ-120820h


 牧師のギリシャ語は「ポイメーン」と言い、単に「羊飼い」という意味である。牧師のイメージは単純に羊飼いのイメージである。羊飼いといっても究極の羊飼いであるイエス・キリストのイメージを追求するのが教会の牧師である。牧師はキリストに似るために召された者である。キリストに似ていない牧師はもう一度自分の召しを吟味する必要がある。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
(ヨハネ10:11-15)
 あなたの牧師のイメージは羊飼いであろうか? あなたの教会のイメージは緑の牧場、いこいの水のほとりであろうか? メガチャーチと呼ばれる教会はよくショッピング・モールやディズニーランドにたとえられる。羊飼いは羊を飼う者、つまりみことばによって養う者である。牧師の召しは羊に飯を提供すること。それが主たる働きである。羊飼いは羊に娯楽を与えて楽しませるエンターテイナーではない。あなたの教会は奉仕を強いられる強制収容所のようなところだろうか? 羊飼いは羊を鞭打ってこき使う者ではなく、羊の必要を満たし、羊を導き、羊を守り、羊を大事に育てる者である。しみ、しわ、傷、そのようなものの何一つない羊に育てるのは、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげるため、つまり礼拝者・献身者としてささげるためである(ローマ12:1参照)。



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