安保関連法案の衆院通過にあたってーデモクラシーってこういうもんですよ | 今村健一郎(愛知教育大学 哲学教員)のブログ

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 安全保障関連法案が衆院を通過した。参院での議決が無くとも憲法第59条のいわゆる「60日ルール」によって、今国会での法案成立はまず間違いなかろう。
 安保法案をめぐる今回の一連の論争・騒動の要は、無論「憲法」であり「立憲主義」である。「9条は集団的自衛権を容認するという現内閣の解釈変更がまかり通るならば、つまり、そのような解釈変更が今後も一般的に容認されるならば、時の内閣が適当であると思うままに解釈改憲が可能になってしまう、そして、それは立憲主義の崩壊に他ならない」というのが、現内閣に対する批判の核心であろう。
 「立憲主義」とは複合的な概念なので、それを一言で言うのは困難である。しかし、あえて言うならば、それは、「政府の権威は憲法に由来し、そして憲法に制約される」というものだろう。だから政府は憲法に違反してはならない。現内閣は憲法解釈によって実質的に憲法に逸脱している、というのが批判者たちの言い分だろう。
 さて、そもそも憲法とは、我が国の場合、国民の代表から成る国会によって制定されたものである(日本国憲法は明治憲法の「改正」として誕生した、というような話はここでは省く)。その改正には国会による発議と国民投票を要するので、このことから、日本国憲法に関して、その事実上の制定権力は日本国民の代表たる国会と日本国民自身にあると見なしてよいであろう。(立法権自体が憲法によって創出された権力なのだから、憲法の制定は立法部[国会]によるものであってはならない。憲法制定権力は、立法部[国会]とは異なる憲法制定会議のみがもつものでなくてはならない、といった「憲法制定権力」に関する議論はここでは割愛する。)
 かくして、内閣以下の政府の権威の源は国民の代表から成る国会の制定した憲法に存する。

 ここまではいい。ところが、日本は議院内閣制を採用していて、内閣総理大臣と閣僚の過半数は国会議員から選出されるものと憲法上定められている。国会と内閣は別個の存在ではないのだ。実態上は、国会の多数派である与党と内閣はほぼイコールである。そうであるがゆえに、「国民の代表たる国会が憲法を通じて内閣・政府に制約を与える」という図式、国会と内閣を対立的に捉えるこの図式は多分にぼやけたものにならざるをえない。そしてまた、与党と内閣はほぼイコールなのだから、安保法案だろうが何だろうが、時の内閣の望む法案は、ほとんどいつも通る。「強行採決だ!」と言われても、それが議院内閣制ですからね、だったら選挙で勝つことですね、ということである。
 安保法案の成立は不可避である。とすると、残された途は、ひとつは、最高裁の違憲法令審査である。議院内閣制のもと、「多数者の専制」が行われるとき、その専制に最後に対抗しうるのは司法権である。(今回の安保法案の成立が「多数者の専制」と言っているわけではない、ここでは一般論を述べているだけである)。もうひとつは、次の選挙で反対派が多数を占めて、安保関連法を廃止するというものである。

 何が言いたいかというと、反対派がデモやっても何しても、「安保法案の成立は民意の反映である」ということですよ。民主主義は何ら踏みにじられてはいませんよ。安保法案は民主政を奉じる我が国のルールに従って成立するのです。

そして今回の騒動を機に私がさらに言いたいのは次の2つである。

①憲法を軽視する気は全くないが、憲法を巡る論争・騒動は、第一義的には一国内の問題であるにすぎない。しかるに、「戦争か講和か」といった安全保障の問題は、我が国と相手国・相手勢力との国際的な関係である。よって、安全保障の問題を「違憲か否か」といった一国内の問題としてのみ扱うのは偏頗である。「尖閣問題が緊迫化したとき、どう対処するか」というような実質的な安全保障の議論を国会は与党と野党の対立を超えてもっと真剣に行ってもらいたい(日本の国会議員はハイポリシーの領域の議論が極めて弱いとの印象を受ける)。

②憲法第9条は改正ではなく、「削除」すべきである。時代と共に変化する国際情勢の中で、我が国がどのように安全保障を実現していくかを決めるべきは、その時々の政治指導者たちであるべきだ。あらかじめ憲法に記しておくような問題ではない。国会議員であるならば、国益の第一である安全保障の問題は常に考えていてもらいたい。私はかねてからこの「削除論」を抱いていたのだが、法哲学者の井上達夫も削除論を唱えているということを、無学にも最近知った(イノタツさんの削除論と私の抱く削除論は、その議論の中身がきっとだいぶ違うのだろうが)。