(聖学院大学教授/反貧困ネットワーク栃木共同代表)

 

 

( 前回からの続き)

 驚くべきことは、この日本軍という組織のエートス、およびその組織の構成員たる日本兵のメンタリティが、2016年現在までこの国の社会に綿々と受け継がれてきたことである。というのも、かつての「天皇の軍隊」において上官の横暴に対しあまりにも従順だった日本兵たちの子孫は、現代における使用者・上司の横暴に対しあまりにも従順な労働者だからである。

 その原因を探ると、おそらく教育の問題に帰着する。71年前の日本兵のほとんどは「人権」なる概念を知らなかった。大日本帝国憲法は、現代憲法との比較において限界があったとはいえ人権保障規定を有していたにもかかわらず、である。

 翻って現代日本でも、労働者としての権利を市民に教育するプログラムはなきに等しい。いまや高校・大学ですっかり定着した「キャリア教育」は、今の日本の歪んだ企業文化に若者たちを馴致させることを目的としており、それに対する批判的視点を養うものではない。大学に設置されている経済学・経営学・法学関連の科目でも、自らを経営者の立場に置くもの(たとえば「最小のコストで最大の利益を上げるため、いかに合理的に人的資源を活用するか」という問いの設定)が多く、労働者目線で問題を認識・分析するもの(「いかに賃上げを獲得するか」「いかに休暇を取得するか」という問いの設定)はほぼ皆無である。また、法学部は別として、その他の文系学部(とりわけ経済経営系学部)では「会社法」や「経済法」の講義は設置されていても、「労働法」や「社会保障法」講義が設置されていることは稀である。

 このような「経営者目線の労働者」は、いわゆるバブル世代とITバブル世代、年齢でいえば40~50歳くらいの年代にとくに多いように感じる。ホリエモンこと堀江貴文氏の「SEALDsの若者みたいなのは雇わない」「高校生は組合なんてつくるな」という発言はその象徴であろう。福祉切り捨ても、消費税アップも、保育士不足も、経済的徴兵制も、すべて「強者・勝ち組である自分には関係ない。弱者・負け組の誰かが割を食うだろうが、それは自己責任。あるいは運命だから仕方ない」という感覚である。そして、このような上司の下で働く現代の若者は、自分たちはバブルを知らない世代であるにもかかわらず、自然にその価値観を自らのものとしてゆくのである。

 もう一つ、とりわけ今の若者がブラックバイトの泥沼にはまる理由がある。それは、そこに偽りの「やりがい」「自己実現」が組み込まれていることである。学業が振るわない、あるいは友人や恋人ができないという若者にとって、バイト先で店長から「頼られる」という経験には、何物にも代えがたい自己承認欲求を満たすものがある。他でもない自分が必要とされているという感覚である。無論、店長=経営サイドから見れば、その学生も取り替え可能・使い捨ての労働力に過ぎない。しかし、そのことを巧みに覆い隠し、「やりがい」といった空虚なエサを用いて非正規雇用者を徹底的に搾取するのである。俗な言い方だがこのような「洗脳」システムにも我々は目を向ける必要があろう。

 しかし、そんな中でも、「『労働者の権利』なんて甘ったれたことを言うな」というコンセンサスを広く共有する中高年世代に対し、「労働法や社会保障法の知識は必要だ」「国民として、市民として、労働者として、憲法や法律で保障された権利は行使すべき」という意識を持つ若い世代が徐々に育ちつつあることには一筋の希望が見られる。日本の社会が「ブラック過ぎる」ことに若年層が疑問を呈し始めたのである。

 日本の労働法や社会保障法そのものは、実はそれなりに整備されている。労働者が少しだけ勇気を出してこれらの法律を活用すれば、使用者に異議申立てをなすことは不可能ではない。あるいはそのような労働者が声を上げられるようにエンパワーメントないしバックアップする体制を構築・強化することが必要である。こうして、この国に巣食う「ブラック的なるもの」を一つ一つ丹念につぶしてゆくという作業、地味ではあるがこういう作業の丹念な反復こそが、「ブラック国家」日本を変える契機になるように思われるのである。

 

いしかわ・ゆういちろう 早稲田大学法学部卒業、同大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は憲法・フランス法。最近の共編著書に『裁判員と死刑制度』(新泉社、2010年)、『現代フランスを知るための62章』(明石書店、2010年)、『リアル憲法学〔第2版〕』(法律文化社、2013年)、『フランスの憲法判例Ⅱ』(信山社、2013年)、『憲法未来予想図』(現代人文社、2014年)、『国家の論理といのちの倫理』(新教出版社、2014年)、『これでいいのか! 日本の民主主義:失言・名言から読み解く憲法』(現代人文社、2016年)など。