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「1860年」(1933年作品)感想 | 深層昭和帯

 

1860年、日本は江戸末期。江戸時代 - Wikipedia

フランスブルボン朝(ブルボン家)の支配からイタリアを解放し、統一しようとするイタリア人(主にシチリア人)の戦いを描いた作品。2000人の素人俳優を使ったのだという。俳優は棒読みだったり、死体のはずの少年(主人公夫婦の妻の弟)が馬上で手が動いてしまったりしているが、素人の飾らない、色のついていない感じが新鮮で良かった。

 

(主人公の、新婚夫婦)

1860 (1933) – rarefilmm | The Cave of Forgotten Films

 

ゴドーというタイトルながらゴドーが出て来ない『ゴドーを待ちながら』を想起した。

カリスマリーダーであるガリバルディ将軍が、噂やポスターの絵だけで登場し続け、最終盤もはやこれまでかというピンチの所で出てきたと思ったら声だけ。しかし将軍を希望の目で見つめる軍人たちの顔は映る(ガリバルディ将軍(国王・軍・市民で一体となり、イタリアを解放して統一しようという思想の持ち主)の喝で、イタリア軍は奮起しブルボン軍に勝利。しかし死者多数。)。この撮影方法に、イエス・キリストものを想起した。

ガリバルディ将軍は実在の人物。この将軍を演じた俳優の実際の顔を映してしまうと、そのカリスマ性が薄まってしまうのだろう。いわんや素人俳優であれば、張りぼてのように嘘っぽくなってコメディ風になってしまったかもしれない(西郷隆盛を誰が演じても違和感がある(いわんや素人俳優ならなおさら)ように)。

 

 

イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた、ジュゼッペ・ガリバルディ - Wikipedia (1807年7月4日 - 1882年6月2日

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★ジュゼッペ・ガリバルディイタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ[1]カヴールマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。

1860年千人隊赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく、余生をカプレーラ島で送った。

ガリバルディの遠征によって南イタリアシチリアサルデーニャ王国(のちのイタリア王国)に併合されたが北イタリアによる圧政・差別に苦しめられたことから、南イタリア出身の歴史家の一部やリソルジメント修正主義イタリア語版)に立脚する歴史家は、ガリバルディの遠征を北イタリアによる不当な侵略だったと捉えている[2]イタリア統一運動#南部問題の発生を参照)。★

 

西郷隆盛 - Wikipedia

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ナポレオン三世の名が出て来る。ナポレオン三世は、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)の甥にあたるらしい。

在位 1852年12月2日 - 1870年9月4日

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ナポレオン・ボナパルト - Wikipedia

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アレッサンドロ・ブラゼッティ - Wikipedia

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監督は、ファシスト時代を代表する映画人なのらしい。

「ファシズム」の原義は「結束主義」。

 

★Wikipediaより★

アレッサンドロ・ブラゼッティ(Alessandro Blasetti,1900年7月3日- 1987年2月1日)は、イタリア映画監督

ネオリアリズモの監督でファシスト時代を代表する映画人。1920年代後半に苦境の映画業界を復活させたので、たまに「イタリア映画の父」と呼ばれる[1]

来歴

 

ローマで生まれる。大学で法律を学び、ジャーナリスト映画評論家になることを志、いくつかの映画雑誌で働き、当時生産中止だった国産映画の制作のためのキャンペーンを張った[2]

1929年に映画『太陽』で監督デビュー。イタリア映画が製作されていなかった時期の作品であり、好評を博した。ベニート・ムッソリーニは「ファシスト映画の夜明け」とした[3]。この時期にすでにネオリアリズムの要素を持っていた。

同作のヒットで、イタリア唯一の大物プロデューサー・ステファノ・ピッタルーガからオファーを受けた。この時期、ピッタルーガはローマのスタジオを音声映画用に改築したばかりだった。

イタリア初のトーキー映画『復活』(1931年)を撮るが、制作が遅れ、ジェンナーロ・リゲッリの『愛の歌』(1930年)に先を越された[4]。1934年に『1860』を、 2000人の素人俳優を野外で使って撮影した[5]

国からの助成金と支援のためにロビー活動をしており、1930年代のイタリア映画産業復活の原動力だった。ロビー活動の結果、ローマの大規模スタジオ「チネチッタ」の建設を実現した。

ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベリッシマ』に本人役で出演。同作は、アンナ・マニャーニ演じる母親が娘をスターにしようとチネチッタでブラゼッティのスクリーンテストを受けさせる物語である。

1967年のカンヌ映画祭と、1969年第6回モスクワ国際映画祭で審査委員長を務めた[6]

1987年、ローマで死去。★