『八月の日曜日 Domenica d'agosto』1950年
イタリアのある一日の話。という括りで、同じくある一日が描かれた小説『ユリシーズ』を想起。ユリシーズ - Wikipedia
映画はタイトル通り、八月のある日曜日の話。群像劇。
大勢が押し掛ける海水浴場が主な舞台のため、人が出過ぎて群像過ぎ(笑)、観光地の宣伝のために自治体が作ったVTRのような、土地主体で漠然とそこにいる人たちを眺め続ける散漫なものを見続けることになってしまうのかと思いきや(観光地のVTRはそれでいい、というか、そうでなければならないのだが)、四つくらいハブのように機能する人間関係があり、そこを見るということができ、良かった。
- ★ハブ/意味拠点
- ハブ (機械) - 車輪の中心部にあって、リムと車軸とをつなぐスポークが集中する部分・構造。
- ハブ・アンド・スポーク - 物流や運輸、IT部門で使用される概念。
- ハブ (ネットワーク機器) - イーサネット、USB、IEEE 1394 などにおいて、ネットワークの中心に位置する集線装置であり、複数のネットワーク機器を接続する装置。★
一つ目のハブ(拠点)は、使用人(字幕では「家政婦」)と警官。
使用人が警官との子を妊娠、屋敷にとって外聞が悪いからと「8日やるから子をおろせ」と言われ、警官に相談すると、「おろすことはない、結婚すればいい、そのつもりだった、今は兵舎暮らしだが部屋を見つけて一緒に住もう」と言われる。
しかし使用人は、「結婚するには書類が必要だが、その書類で自分の親代わりに記入してくれる人がいない」と言う。
「誰かいないのか」と警官が訊くと、「使用人仲間で今は老人ホームに入っている人がいる」と言う。「じゃあ2人でそこに行ってお願いしよう」となり行くと、その人は身内として書類に記入することを承諾してくれる。
良かったとなり使用人がお屋敷へ戻ると消防車が来ている。使用人がスイッチを入れたまま布の上に置き忘れたアイロンからボヤが出ていたのだった。即解雇される使用人、荷物をトランク1つにまとめ、警官が仕事中の道路へ泣きながら行くと、事情を聞いた警官は、「とりあえずあそこのバーで待っていて」と言い、「何とかなるさ、神様はいる」というようなことを1人呟き交通整理の仕事を続ける。
この2人が、真面目で質素で、2人で互いの小さな蝋燭の火が消えないようにかばい合い愛しあっている感じが伝わってきて、思わず応援したくなる。
アイロンのこと↑も、その時点で観客は、「それ、火事になる!」と使用人がアイロン(上から線で繋がれたもので、コテのように熱を移して使用するタイプ(結構早く冷える)ではない)を布の上にペタッとくっつけたままにしているのにヒヤヒヤしていて、忘れた頃にやっぱり……となり、でもあの子ならそうなるか、と身内気分になり、この子はしっかりしたあの警官と一緒になるべき、あの人とならうまくいく、あの人は彼女のそういうところをこそ愛していて、僕がいないと彼女は……、という凹凸の関係になるから大丈夫、と胸をなでおろすことになるのだ。
二つ目のハブは、妻を亡くしたシングルファーザーと、
離婚したシングルマザー。
2人の娘が海辺の同じ寄宿学校へ入るために親としてこの地に来たのだが、海辺で初めて目を合わせた瞬間から2人は心が同期し(一目惚れ)、男性の方は、一緒に来たやたら押しの強い女性(寄宿学校ではシスターに親類だと言っていたが、実は恋人同士)と別れる決心をして、
その恋人を切るために父娘だけで帰宅することに決め、
バスの中で娘が「お友達が出来た」とそのお友達の電話番号を途中まで言うと、男性が女性から聞いた番号を続けて言い、「何で分かったの?」と娘が言い、「分かっていたさ」と言うのだ。ここが凄く好きだった。
三つ目のハブは、とにかくやかましいお母さん↓がいる大家族の
思春期の娘と、
金持ちしか入れない砂浜のエリアに入って金持ちのフリをしている同じ年代の男の子。
2人とも見栄を張って自分の本当の出身を隠して金持ちエリアに侵入して海水浴をしていて、一緒に乗ったボートが浸水、そこから岸へ泳いで他人の車に乗せてもらってそれぞれの家族のもとへ戻る間に心が通じる。
女の子がこの男の子に出会ったのは、女友達のお陰なのだったが、女の子はその子を出し抜き、男の子と2人きりになった。最初友達の方に気があった男の子だったが、女の子と関わるうちに好き同士に。
海水浴場が19時に閉まるというギリギリまで女の子が行方不明になっていたため一家は騒然、海水浴客の中から水死者が出て、すわうちの子か、となったお母さんはわめき嘆くが、「男だ」と分かったとたん「うちの子じゃなくて良かった」とほっとして泣く。
帰宅後、男の子が自分のアパートの窓から道に落としたバケツの水を女の子の一行の男性がかぶり、その男性〇〇が男の子の知人でその一行の中に女の子がいたため男の子は階段を嬉しそうに走り下りていき、一行の最後尾の女の子に「〇〇が叔父さんなの?僕、配管工の息子」と言い、「社会で同じレベルの男女であること」を確認し合い、その親しみを共有、いいムードになり、バイバイ、と別れる↓のだ(男の子視点での、女の子のバイバイ)。
四つ目のハブは、「こんなアパートにいるくらいなら窓から飛び降りて死んだ方がマシ」と自分の現状を憎悪している若い女性と、同じアパートの住人でその女性と付き合っていたが働かずに振られた男性。
女性は、誘われた高級外車の男性と海水浴場へデートに行こうとするが、それを男性が阻止しようとする↓。
すると女性は「あたしはとにかくここから出たいの!」と男性を振り切り、スカした男性↓と海水浴場へ。
女性はすぐに、男性の知り合いの芸術家気取りの男爵に目を付けられ、レイプされそうになる。
その男爵に女性が平手打ちをしてそのことを男性に話すと、「男爵に謝ってくれ。俺は実は一文無しで、男爵と男爵夫人の太鼓持ちとして何とか生活しているんだ」と言われる。それで女性は急に冷める。
帰ると、アパートにパトカーが来ていて、付き合っていた男性が連行されていく。
男性は、女性が高級外車男と出かけてしまったため落ち込み、憂さを晴らすためにカフェに行って会った昔の悪い仲間に誘われるままに畜殺場の金庫へ強盗に入り、知り合いの警備員に声を掛けられ、その警備員を仲間が撃って逃げたために「大丈夫?」と近寄ったために捕まり、その警備員の銃で警備員を撃ち、逃げ、御用となったのだった。
護送車に乗り込む男性と女性の目が合う。
この男女も、別れられない運命の2人という感じ。
というように、濃いドラマが点在している、一見いつもの八月の日曜日、という作品。
そこが人間社会の真実っぽい。個人のどんなに濃い喜怒哀楽にもお構いなく、時は過ぎゆく、というような。
混線している電話回線のどこかとどこかが偶然通じてしまう人間関係版、というような。
日曜日の海水浴の様子に、スーラの点描画『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を想起した。
シカゴ美術館での展示風景
★8月の日曜日(イタリア語:Domenica d'agosto)は、ルチアーノ・エマー監督、
ヴェラ・カルミ、マルチェロ・マストロヤンニ、エミリオ・チゴリ、マッシモ・セラート主演の1950年のイタリアのコメディドラマ映画です。国内興行収入は1億5000万リラ弱。[1]この映画は英国アカデミー賞にノミネートされました。2008年、この映画はイタリア文化遺産省の「1942年から1978年の間に国の集合的な記憶を変えた」100本の映画のリストである「保存すべきイタリア映画100本」に選ばれた。(注2)
キャスト
- アンナ・バルディーニ:マルチェッラ・メローニ
- ヴェラ・カルミ(アドリアーナ役
- エミリオ・チゴリ - アルベルト・マントヴァーニ
- フランコ・インターレンギ(エンリコ役
- エルヴィ・リシアック(ルシアナ役
- マッシモ・セラート(ロベルト役
- マリオ・ヴィターレ(レナート役
- マルチェロ・マストロヤンニ(エルコレ・ナルディ役
- アンナ・メディチ(ロゼッタ役
- アンドレア・コンパニョーニ:チェーザレ・メローニ
- アヴェ・ニンチ:フェルナンダ・メローニ
- サルボ・リバッシ(ペローネ役
- ジョーン・モリノ(メスメ役★