『シーザーとクレオパトラCaesar and Cleopatra』1945年
ローマ人の大将シーザーが、エジプトにやって来てエジプト人を平定、エジプトをローマの属州とした話。
その過程で、シーザーに出会った、少女っぽかったクレオパトラが女性らしくなり女王の威厳を確立させる。
しかし、シーザーの捕虜であったエジプト人を、生かすと敵になるからとクレオパトラは乳母に暗殺させ、ゆえに乳母がシーザーの忠臣ルフィオに殺された。
エジプトのアレキサンドリアを平定したシーザーは属州の長をルフィオに指名し「シーザー万歳!」と喝采を浴びながらローマへ船で帰ろうとする。
そこへクレオパトラが喪服で現れると「弟プトレマイオスの死を悼んでいるのか?」とシーザー。
クレオパトラがルフィオが乳母を殺したことを言うと、ルフィオは「シーザーを危険にする者を殺しました」。「よし」とシーザー。
この乳母はクレオパトラの母的存在で、幼いクレオパトラを利用してエジプトを支配しようとしていた。初対面の際にそれに気付いたシーザーは、クレオパトラに「この乳母は奴隷、あなたは女王」と立場を実感させたのだった。
その後クレオパトラはシーザーの言いなりに。
いわばシーザーは、クレオパトラを自分に惚れさせることでエジプトを平定したとも言える。シーザーは、人心掌握と戦術の天才、ゆえに神と崇められているのだ。
それにひきかえクレオパトラは、女王の地位でつけあがったと思うとシーザーに内緒で乳母にエジプト人の捕虜を暗殺させた。
シーザーにとって、捕虜は自分の客人、勝手なことをしたクレオパトラをシーザーは見限り、「もう二度と会う事はないだろう。私の代わりにあなたが昔惚れた若いアントニウスを遣わしましょう」と去っていくのだった。「わ、嬉しい!」と父に抱きつく娘のようなクレオパトラだったが、去っていくシーザーの姿に涙が止まらないのだった、でジエンド。
クレオパトラは弟の、まだ少年のプトレマイオスと王座を争っていて、この姉弟が夫婦だというのも興味深かった。
とにかくこの血筋で王権を保ちたい、保たせたいがゆえの策なのだろうと思った。
(左から、クレオパトラの弟プトレマイオス。シーザー。クレオパトラの乳母に暗殺される、シーザーの捕虜のエジプト人。)
シーザーの言いなりでつまらなくなったクレオパトラを後宮の女性たちが揶揄するシーンも面白かった。
エジプトにとっての猫は、日本にとっての狐だろうか。
★バステト(Bastet, 古代エジプト語: bꜣstjt, コプト語: Ⲟⲩⲃⲁⲥⲧⲉ, Oubaste)またはバストは、エジプト神話に登場する女神。★
★Wikipediaより★
『シーザーとクレオパトラ』(原題:Caesar and Cleopatra)は、1945年に製作・公開されたイギリス映画である。クロード・レインズとヴィヴィアン・リーがタイトルロールを演じている。ジョージ・バーナード・ショー
の戯曲『シーザーとクレオパトラ(英語版)』の映画化作品であり、ショー自身が脚本を執筆した。監督はプロデューサーでもあるガブリエル・パスカル。撮影は戦時中の1944年であるが、テクニカラーの大作として完成した。
バーナード・ショーの原作であるため、1963年の『クレオパトラ』
のような重厚な歴史スペクタクルではなく、ヴィヴィアン・リーには珍しいコメディタッチの作品となっている。
日本公開は1950年、9月1日から21日まで有楽座で上映されている[1]。また1973年11月30日23時20分からフジテレビの『スペシャル洋画劇場』枠でテレビ放送された[2]。
キャスト
- シーザー:クロード・レインズ
- クレオパトラ:ヴィヴィアン・リー
- フタタチータ:フローラ・ロブスン
- ポチナス(英語版):フランシス・サリヴァン
- ルフィオ:バジル・シドニー
- アポロドラス(英語版):スチュワート・グレンジャー
- ブリタナス:セシル・パーカー
スタッフ
- 監督・製作:ガブリエル・パスカル
- 製作総指揮:J・アーサー・ランク
- 原作・脚本:ジョージ・バーナード・ショー
- 音楽:ジョルジュ・オーリック
- 撮影:ジャック・カーディフ、ジャック・ヒルドヤード、ロバート・クラスカー、フレディ・ヤング
- 編集:フレデリック・ウィルソン
- 美術:ジョン・ブライアン、オリヴァー・メッセル
- 衣装・装置:オリヴァー・メッセル
製作
企画・キャスティング
1941年、ヴィヴィアン・リーにはほぼ同時に2つバーナード・ショーの戯曲を舞台で演じる話がきた[3]。アメリカでの『シーザーとクレオパトラ』と英国での『医師のジレンマ』である[3]。ヴィヴィアン・リーはクレオパトラを演じたかったため、映画化を計画しているガブリエル・パスカルに、舞台で上演してから映画化の話を持ちかけたが、パスカルは興味を示さなかった。しかしパスカルはヴィヴィアン・リー主演で映画化することは承知した[4]。ただし、配役はバーナード・ショーの承認が必要であった[5]。どうしてもクレオパトラを演じたいリーは『医師のジレンマ』を演じてバーナード・ショーを満足させられれば、クレオパトラも認めてもらえるだろうと『医師のジレンマ』を引き受けた[5]。その後『医師のジレンマ』は大成功し、地方で6か月、ロンドンで13か月も上演した[6]。
バーナード・ショーを訪れたヴィヴィアン・リーは、うまく会話をさばきクレオパトラについては一言も触れず、ペルシャ猫のように振る舞った[7]。いとまを告げようとした時、バーナード・ショーは「あんたはクレオパトラをやらなきゃいかんね」と言って、ヴィヴィアン・リーがクレオパトラに決定した[8]。
また、この作品にはハープ奏者としてジーン・シモンズが端役で出演、その他ロジャー・ムーア、ケイ・ケンドールなども端役で出演している[9]。
撮影
撮影は戦時中の1944年7月12日から開始されている[10]。撮影を見に来たバーナード・ショーは「(プロデューサーの)ランクがかわいそうだな。この映画は100万ポンドかかるだろう」と言ったが、実際英国で最もお金のかかった作品になった[10]。
撮影前、ヴィヴィアン・リーは体調が悪く咳が続いていたが、北アフリカへの軍の慰問に加わった[11]。帰る頃にはなんとか咳は止まったものの、体重は7kgも減っていた[12]。その後妊娠がわかり、医師はこんな時期に映画に出演してはいけないと言ったが、ヴィヴィアン・リーは忠告を退け撮影を開始[10]。1944年の夏は季節外れの寒さで、ヴィヴィアン・リーは薄い衣装で屋外に出て猛暑の雰囲気を作り出さなければならず、撮影開始から6週間後に倒れ、お腹の子供は失われた[13]。
映画の撮影後、ヴィヴィアン・リーに最初の双極性障害の発作が出た[14]。態度が突然変わり暴れ出し、その後は大声をあげて泣き出し、発作が収まると何も覚えていなかった[15]。このことはヴィヴィアン・リーと夫のローレンス・オリビエにとって恐怖であった[15]。
エピソード
- 映画公開の前後で、この映画のメイキング本である『MEETING AT THE SPHINX 〜Gabriel Pascal's Production of George Bernard Shaw's Caesar and Cleopatra〜』が英国で出版されている[16]。
- ヴィヴィアン・リーは後年1951年に舞台で再度『シーザーとクレオパトラ』を演じている[17]。その時はシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』との日替わり公演で、両方でクレオパトラを演じた[18]。シーザーとアントニーは当時ヴィヴィアン・リーの夫だったローレンス・オリビエが演じ、イギリスとアメリカで大成功をおさめた[19]。
賞歴