星お月様星空『ゴルゴダの丘 Golgotha』1935年星空お月様星

Golgotha (1935 film) - Alchetron, The Free Social Encyclopedia

暴動を扇動したという咎で、磔にされることとなったイエス・キリスト。
彼はガンジーのように、非暴力、不服従。
民衆やローマの政治家軍人は、イエスがいたぶられればいたぶられるほどに興奮。
これは、「それ(被害者)が自分じゃなった」という安堵の暴走なのだろう。
 
イエスはユダヤの王として磔になるのだが、それに対して「あいつは偽物だ」と指さす者もあり。
 
預言者が「救世主が現れる」と言っていたときに丁度よそからやって来たストレンジャー・ナザレのイエスは、彼が正に救世主なのだと迎える人と、そんな訳ないと反感を持つ人の間でもみくちゃにされる。
 
そういう熱狂を引き出す人が、正に救世主ということなのかもしれない。
ローマ帝国が支配の地域を広げて圧政していた時代、鬱憤が籠っていたのだろう。
 
イエスは神の国を作ろうとしていた。神殿を壊し、また再建すると言っていた。それは、現在の圧政をなくし、民主主義というより、それを軽く超えた魂主義のような理想を実現したかったのだろう。その点において、この映画のイエスがジョン・レノンに見えた(曲『イマジン』や、銃弾で死すところが特に)。
 
イエスを裏切る弟子が二人。ユダともう一人。
ユダは金でイエスを売る(イエスが入った地の支配者たちに、「私がキスした人がイエスだ」と言い、イエスにキスしようとする。するとイエスは「私を売ったな」と言う)。
もう一人の「あなたを信じます」と言う弟子には「お前は私を知らないと三度言う」と言い、実際そうなる。
イエスのモデルになっていた人がいたとすると、その人は卑弥呼のように洞察力に長けた、メンタルの強い人だったのだろう。
何が有利かで、日和見的にものを考えない人だったのだろう。
そういう人がつまり、理想が高いとか理想を実現させようとしていると言うのだろう。
 
磔になったのはイエスを含めて三人。
隣りの人から「あなたが神の国に入ったら、私を思い出してほしい」と言われたイエスは、「あなたはもう神の国にいる」というようなことを言う。つまり物理以外のこと、物質以外のこと、脳内、つまり目を閉じた自分という感覚を信じられている、ということなのだろう。
 
イエスが磔になると、嵐雷地震が起こる。
それでイエスは本当に救世主なのだと怯える軍人もいる。
 
磔にされた三人が死ぬと、運ばれ墓場に入れられる。
しかし「信者が死体を盗んで三日後に復活したと騒がないよう、見張っていろ」と言われて軍人たちが昼夜見張る。
しかしイエスの死体は消える。
それで「三日後に復活したのだ」と喜ぶ信者たち。
 
その復活したイエスの姿は映されないが、その話は人から人へと伝わる。
つまりイエスとは、信じる心の象徴なのだろう。
そうであったらいい、を目にしたい人達が、死体をなんとか盗み出し、「やっぱりそうだった」としたかったのかもしれない。
だとしても、だからこそ、イエスは実在の人物というより、その希望を演じさせられたキャラクターだったのかもしれないと思った。
つまりアイドル・偶像なのだろうと思った。
 
イエスは死ぬときにジタバタしない。悔しいとか復讐してやるとかで心が乱れない。状況を受け入れる。
死後の世界を信じて(具体的にイメージできて)いるから。
人が「死ぬのが怖い」と思ったときに、「あのイエス」をイメージすると怖くない、イメトレになる、ということで、イエスは死の先生なのかもしれない。
 
 
GOLGOTHA – Julien Duvivier (1935)
Golgotha (1935 film) - Alchetron, The Free Social Encyclopedia
Golgotha (1935 film) - Alchetron, The Free Social Encyclopedia
RAREFILMSANDMORE.COM. DVD - GOLGOTHA (1935) (Passion of the Christ w/ subs)
The Bootleg Files: Golgotha

Golgotha (1935) - Chacun Cherche Son Film

 

映画では、最後の晩餐のシーンも出て来る。イエスは、「これが最後の食事になる」と死刑になることを予知し、それでいて悲しみも怒りもしない。

最後の晩餐の裏切り者、ユダというのはどの人のことですか?... - Yahoo!知恵袋

最後の晩餐 レオナルド・ダ・ビンチ ユダはどれユダの位置と場所 表現の違い|美の巨人たち | 美

 

ゴルゴタの丘 - Wikipedia

ゴルゴタの丘 - Wikiwand

(『磔刑図』(アンドレア・マンテーニャ画、1459年) キリストを磔にした十字架の根本にアダムの墓を表す髑髏が描かれている。)

undefined

 

映画では何度も過越という言葉が出て来る。

 

★過越(すぎこし)またはペサハ (ヘブライ語: פֶּסַח‎, pesach) とは、ユダヤ教の宗教的記念日。家族が食卓につき、マッツァーセーデル等の儀式的なメニューの食事をとって祝う。期間はザドク暦では第一のホデシュの14日。ユダヤ暦ではニサン月(政治暦7月、宗教暦正月)14日。ユダヤ暦は太陰太陽暦であり、初日のニサン月15日はグレゴリオ暦3月末から4月頃の満月の日となる。★

 

イエスが育った土地と言われている、イスラエルの都市、ナザレ。ナザレ - Wikipedia

 

undefined

1917年のナザレ

undefined

 

ゴルゴダの丘 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

ストーリー

ローマ歴七八六年のこの日、エルサレムにはユダヤ全国から巡礼の群集が、逾越節に列らんものと押し寄せていた。この時弟子共からキリストと呼ばれる予言者ナザレのイエスは、群集の歓呼を浴びてエルサレムの町に入った。しかし天空に聳え立つ集議者の高楼からこの人波を見て、嫌悪と畏怖を抱いたのは大司祭カヤパと集議所員達であった。このガラリヤ人は彼等の権勢を奪い去るかもしれないのだ。しかしイエスは衆人の不審を尻目に寺院内に消え失せ、その日は再び姿を現さなかった。翌日寺院の前庭は只ならぬ騒ぎであった。イエスが商人達を追い払ったのだ。群集を前にしてイエスは真理を説いている。集議所員達はいよいよ狼狽した。自らの地位を守るためにイエスを除かねばならぬ。カヤパ等は額を集めて凝議した。当時ユダヤはローマの支配下にあり、彼等には人を死刑に処する権利はなかったのである。そこでカヤパはローマから派遣されている大守ピラトを術中に陥れてイエスを死罪にしてしまう策略を立てた。先ずイエスを捕らえねばならぬ。あたかもイエスの弟子の一人ユダは銀三十の代償で主を売った。彼は甲冑に身を固めた兵士の先頭に立って、イエスと弟子共の眠っているゲッセマネの谷に追って行く。来るべき自分の運命をイエスは静かに待っていた。イエスは捕らえられカヤパの前に引かれ、イエスは更にピラトの所へ連れ行かれた。ピラトの妻クローディアはこの聖人を自分の夫が罰するのを喜ばなかった。今はカヤパの術策に陥ったピラトはイエスの処置に窮し、ちょうどその時エルサレムに滞在中の、イエスの生地ガラリアの大守ヘロデ王の許にイエスを送ったが、ヘロデも亦之をピラトに送り返した。ピラトはイエスを罰すべき理由を見い出せなかったが、集議所員達に金で買われた民衆は口々にイエスを罵り死罪を叫んだ。ピラトはこの民衆を鎮めるためイエスを笞刑にしたが人々は死罪を叫んで止まなかった。ピラトは遂にイエスに磔刑を宣した。十字架を背負い、無智な群集の怒号の中をイエスはゴルゴダの丘へ上って行く。集議所員の勝ち誇る時イエスは十字架の上に首を垂れた。その時天は怒り地は揺れた。それから三日、死骸を埋めた墓を訪れたガラリヤの女達は霊光の中にイエスの声を聞いた。キリストは甦った。弟子達の前に姿を現した。弟子達は今こそイエスの王国が地上のものでない事を悟り、揺るがぬ信念を抱いて善き言葉を凡べての人々に伝えるであろう。★


 

 

★Wikipediaより★

『ゴルゴタ』は、イエス・キリストの死を描いた1935年のフランス映画で、英語圏では『Behold the Man』として公開されました。監督はジュリアン・デュヴィヴィエ

未定義

ヘロデ役はハリー・バウアー、ポンテオ・ピラト役はジャン・ギャバン

ナザレのイエスはロベール・ル・ヴィガン

未定義

演じています。

1935年にフランスで公開され、1937年にはアメリカで公開され、ヨーロッパ全土で上映されました。しかし、英国映画検閲委員会は「英国の目にそれを見ることを許さなかった」。(注1)

ル・ヴィガンの演技は、サウンド・フィルムでキリストを直接描いた初めての作品である。ほとんどの場合、イエスは『ベン・ハー』、『クオ・ヴァディス』、『ローブ』のように敬意を払って遠くから描かれていますが、クローズアップされたショットやクローズアップもいくつかあります。

ナショナル・ボード・オブ・レビューは、この映画を1937年の外国映画第6位に挙げた。この映画の音楽は、フランスの作曲家ジャック・イベールによって作曲されました。

キャスト