星お月様星空『小間使の日記 The Diary of a Chambermaid』1946年星空お月様星

Diary of a Chambermaid Movie Posters From Movie Poster Shop

The Diary of a Chambermaid (1946) | Diary of a chambermaid, Chambermaid ...

Burgess Meredith movie posters

DVD「小間使の日記 (1946)」作品詳細 - GEO Online/ゲオオンライン

 

 
フランス革命記念日の7月14日にクライマックスを迎え、その翌日に終わる話。
 
冒頭、「赤毛のアン」や「アニー」を想起。
赤毛のアン 第23話 アン お茶によばれる アニメ/動画 - ニコニコ動画
赤毛のアン | フジテレビの人気ドラマ・アニメ・映画が見放題<FOD>
オリジナルの方の映画 「アニー」を観ました! | Photo Studio Ohanaな日々
映画『アニー』 | なーさんち。
つまり逆境に負けない、むしろ楽しむ主人公女性の話。
野心はあるが、可哀そうな人を看過できない主人公。
途中、「秘密の花園」を想起。
屋敷に開かずの部屋がある。そこに、この屋敷の主人夫婦の息子が引きこもっているのかと思った。
しかしそこにあったのは、この家の家宝である、たくさんの銀器。
 
パリから、フランスのある村に、主人公女性が小間使の募集に応じてやって来た。
駅で執事が面接。美しい主人公だけ合格、はるばるやって来た、地味な女性を落としたことに、主人公は抗議。
だったら二人で一緒にパリに帰りましょうと主人公。すると、そこで既に主人公の美と勇気に惚れた、根底に主人公と同じように野心のある執事は二人を雇うことに。
 
主人公は玉の輿に乗りたい。
よって、隣家の既婚の大尉が誘ってくればそれに乗る。とにかく何かチャンスをつかみたいのだ。
The Diary of a Chambermaid (1946) - OLDEST MOVIE CINEMA
 
この屋敷の主人夫婦の息子が帰ってくる。
息子は母と仲が悪い。
母は威圧的。この屋敷を仕切っているのは母。万事緩い感じの父も尻に敷かれている。
実は、家に寄りつかない息子を、息子命の母が家に引き留めるために美しい小間使を探していたのだった。
息子と小間使の主人公は恋に落ちる。
Paulette Goddard and Hurd Hatfield in The Diary of a Chambermaid (1946 ...
その木の下で願掛けすると叶うと言われている木の下で、二人は愛を誓う。
Arsenevich: Jean Renoir - The Diary of a Chambermaid (1946)
 
革命記念日。
執事は、主人公と祭りに遊びに出た大尉の家に空き巣に入る。
口うるさい大尉の妻は、大尉が部屋に閉じ込めていた。
予想に反して早く帰って来た大尉を、執事は鳥を殺す錐で刺し殺し、庭に埋める。そして大尉が祭りのために持ち出した金を着服し、主人公に、「一年前からシェルブールのカフェを買う準備をしてきた。俺と結婚してそこの女王になれ。大尉に関しては、お前も共犯だ」と言う。(執事は、主人公が玉の輿に乗りたいこと、大尉を最初金づるにしか見ていなかったことを知っている。)
主人公は、ここに来たときには執事同様、野心しかなかった。しかし大尉は実は気のいい人。村の人も優しい人ばかり。何より、屋敷の息子に本気で恋しているため、執事がもう悪人にしか見えなくなっていて、どうしても好きにはなれない。
 

屋敷には、革命記念日のため、息子が帰ってきている。

The Diary of a Chambermaid (1946)

(左から、この屋敷の女主人、執事、主人公の小間使。)

The Diary of a Chambermaid (1946) - HKIFF Cine Fan 電影節發燒友

みんなの前で執事は、「10年間こつこつ貯めてきた金で店をやります。つまりここを辞めます。この人とも結婚し、一緒に行きます」と言う。すると主人公を本気で愛する息子が執事に殴りかかる。息子は体が弱い。周囲に止められ、部屋から息子が出ていく。
 
革命記念日の祭りの人だかりの中、執事は銀器(この銀器は、執事が、屋敷の女主人から、主人公を連れ出す代わりに貰ったもの。女主人にとって、小間使の主人公が邪魔になったのだろう(病弱な息子が振り回されて危険という判断)。)と主人公を乗せた馬車で、この村を出ていこうとする。すると息子が追いかけて来ていて、また取っ組み合い。息子は執事に鳥用の錐で刺されたが、かすり傷。逃げた執事は祭りに来ていた村の男たちに取り抑えられ、その圧迫で死去。
 
翌日。走る列車の中には息子と主人公が恋人ムードで隣り合う。
息子は主人公に、「日記の最後を書きなさい。僕が言うように。」と言い、主人公がずっと書いてきた日記の最終ページを開かせる。そして息子は「死が二人を分かつまで」の結婚式の文言を言い、主人公はうっとりしながらそれを日記に書き、ジエンド。
 
 
一緒にこの屋敷で働くことになった、駅で面接を受けた二人。主人公のお陰でここで働けることになり、すぐに出入りの気の優しい男性と恋仲になり幸せをつかんだ右の女性は、主人公を慕い、寄り添う。この二人の関係が一番リアルで良かった。
Paulette Goddard
 
 
 
この映画は、「家政婦は見た」から湿気を除去した版とも言える。
市原悦子(家政婦は見た!) | History guide

 

 

女中タキの視点からある恋愛を描いた、『小さいおうち』も想起。小さいおうち - Wikipedia

小さいおうち : 場面カット - 映画.com

『小さいおうち』中島京子 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS

 

著名人の日記は、のちに読まれることを意識して書くため本人が自意識や感情をコントロールしてしたためているだろうが、一般人の日記は、その俯瞰視点のフィルターがないため、生々しく、告白めき、読むと覗き見っぽくもなり、エロティックな響きを醸し出すのだろう。

また小間使や女中というのも、自分が主人公と思っていないポジションのため、制さず生で無意識に出てしまうものがあり、そこが裸っぽい。

その日記×小間使or女中は、昭和時代までの通俗官能作品の一つの型だったのだろう。

 

 

原作のオクターヴ・ミルボーは、夏目漱石に似ていると思った。活躍していた時代も同じ。オクターヴ・ミルボー - Wikipedia

未定義

undefined

夏目漱石。夏目漱石 - Wikipedia

Ediciones Sígueme | Autores, Escritores, Kafka en la orilla

収蔵品一覧 | Web版夏目漱石デジタル文学館 | 県立神奈川近代文学館 | 古い写真, 近代史, 文学

 

 

主人公の小間使を演じたポーレット・ゴダード↓は、マーゴット・ロビーに似たモダンな美しさだと思った。

ポーレット・ゴダードの画像一覧 | 映画ポップコーン

マーゴット・ロビー。

- -#corporatehairstyleswomen #hairstyleswomenbun # ...

 

 

 

 

 

★Wikipediaより★

女中の日記』は、1946年のアメリカのドラマ映画で、裕福な家庭をひどく混乱させる新雇い使用人を描いています。この映画は、オクターヴ・ミルボーの1900年の同名小説と、アンドレ・ド・ロードがアンドレ・ヒューズとティエリー・ノレスと共作した戯曲「Le journal d'une femme de Chambre」に基づいています。監督はジャン・ルノワール主演はポーレット・ゴダード、バージェス・メレディス、ハード・ハットフィールドフランシス・レデラー[1]この映画は、ナショナル・ボード・オブ・レビューによって1946年の英語映画第8位に選ばれた。(注2)

プロット

1885年、フランスで女中セレスティーヌは、社交界のはしごを上るつもりで、田舎の邸宅であるランレール家の家で新しい地位に就きます。彼女は新しい雇い主であるムッシュー・ランレールのもとで働き始め、彼はすぐに彼女に好意を抱き、横暴な妻の会社よりも彼女の会社を好みます。やがて風変わりな隣人であるキャプテン・マウガーは、彼女が代わりに彼のために働くことに夢中になり、彼女が彼と一緒に暮らすようになったことへの報酬として彼女と結婚することを申し出ます。ムッシュー・ランレールの病弱な息子ジョルジュは一時的に屋敷に帰省し、彼を長く滞在させようと、母親は魅力的なセレスティーヌに派手な服を買ってあげようと最善を尽くし、息子の世話をするように命じます。

それでもジョルジュはパリに戻る計画を立て、絶望したランレール夫人はネグリジェだけを着たセレスティーヌに、ジョルジュに部屋にスープを持ってくるよう命じる。ジョルジュは母親が自分を騙して留まらせようとしていることに気づき、セレスティーヌも同じ結論を導き出す。マダム・ランレールが自分を操ろうとすることに腹を立てたセレスティーヌは、仕事を辞め、従者のジョセフと一緒に町に乗ろうとする。彼は数日後のバスティーユの日に銀食器を盗む計画を彼女に話し、セレスティンに共犯者として家に残るよう説得する。

マダム・ランレールは二人の会話を盗み聞きし、従者の計画を台無しにする。代わりに、彼はキャプテン・マウガーの隠されたお金を盗む計画を立て始めます。船長が祝賀会に出かけている間に、ジョセフは彼の家を捜索し、船長が戻ってきて彼を現行犯逮捕すると、ジョセフは逃げるために船長を殺すことを余儀なくされます。ジョセフはランレール夫妻に、自分の地位を捨ててセレスティーヌと結婚するつもりだと告げ、ランレール夫人は大喜びする。彼女は息子のジョルジュがセレスティーヌと恋に落ちたことに気づく。彼女は、ジョセフが屋敷を去り、セレスティンを連れて行くなら、ジョセフに銀食器を与えることに同意します。ジョセフとセレスティーヌが村の祝賀会のために遅れたとき、ジョルジュはセレスティンを取り戻すことを決意して、なんとか彼らに追いつくことができます。ジョセフとジョルジュは互いに戦います。ジョセフは殺される。ジョルジュとセレスティーヌは一緒に立ち去る。

キャスト

批評家の反応

この映画のオリジナル公開について、Variety誌は「これは奇妙な糸で、フランス人がとてもうまくやっているタイプで、他のほとんどの人はたじろいでいる。アメリカ版の日記は、フランス語版の原文が示唆するような陰謀や色彩をほとんど持っていませんが、独自の名前と興味を持っています。(注3)

 

 

 

Wikipediaより

小間使の日記』(こまづかいのにっき、フランス語原題: Le Journal d'une femme de chambre)は、オクターヴ・ミルボー

小説1900年刊。

成立過程

この小説の初稿は、1891年10月20日から1892年4月26日にかけ、『エコー・ド・パリ』に連載。ミルボーは当時、深刻な精神的な、結婚生活上の危機に直面し、無力感にさいなまれ、一般的な小説形式、ことに自分の連載小説に嫌気がさしたと述べている。したがって、自作を本にしたのは、物語をドレフュス事件の時期に設定し、完全な改作を行った9年後の、1900年7月であった。このドレフュス事件で、彼はかつてないほど人間嫌いに陥った。

 

★ドレフュス事件(ドレフュスじけん、: Affaire Dreyfus)とは、1894年フランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部大尉であったユダヤ人アルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。★

あらすじ

 

 

セレスチーヌの日記はまず、解体と非神話化の見事な企てである。ミルボーはそこである侍女に語らせているが、これは本質的にすでに体制破壊的である。彼女は鍵穴から世界を見、自分の主人たちの「精神的奇形」をすこしも見逃さない。ミルボーはわたしたちを、富商たちの店の奥や、「上流」社会の舞台裏の、社会から隠された現実の中核に、入りこませ、そののぞき屋と化せしめる。彼は権力者たちの体面というマスクをはぎ取り、彼らの汚れた下着をあさり、気取りと傲慢なしかめ面の陰に隠された、悪事の数々を狩りだす。そして徐々にわれわれを、セレスチーヌの懲らしめの罪状報告に共感させる。「不良がどんなにあさましいとしても、けっして上流人士ほどではない」。要するに、彼はつまるところ偽善のビキニショーツにすぎない羞恥心に、なんら顧慮することなく、むき出しにされた人間心情の内幕とその血膿の奥底をわれわれに暴露する。かくして彼は1877年に自ら定めた目標―社会をして「メデューサに向き合わせ」「自らを嫌悪」させるという目標を実現する。

この小説はしたがって、社会という地獄への、いわば訓育的な探検として構想されている。この地獄においては強者の掟が支配する。勝ち誇る社会的ダーウィニズムは結局ジャングルの掟の永続にすぎず、ほとんどそれに劣らず野蛮で、しかもはるかに偽善的である。富者の「鉄のかかと」は、ジャック・ロンドンが述べているように、思うまま賦役を課し得る被搾取者の無定形集団を情け容赦なく押しつぶす。この集団については、受け取るべき給金を貰っていないというので、セレスチーヌが警視に訴え出ると、彼はこう言明する―「無政府化」の危険を冒さないよう、激しい非難の声もあげず、黙って血を吸われる以外の権利は、彼らにはないのだ、と。ダーウィン主義者の主張するような優者どころか、捕食者たちは、感受性・美的感動・道義心・精神生活の欠落、そして批判的精神の欠落によって、否定的にしか定義されえない。フロベールそしてボードレールにつづき、ミルボーはブルジョワを精神的醜悪・知的低俗そして情愛と官能の荒廃の権化とした。ランレール家の人々は、滑稽な名字(Lanlaire だが 仏語でVa te faire lanlaire!というと、「とっととうせろ」の意味になる)だが、生けるプロトタイプである。

主要なテーマ社会的正義の作品

ブルジョワ社会の最も度し難い卑劣さのひとつは奴隷制度の現代的な形態である召使制度である。「奴隷制度はもう存在しないといわれる。ああ、それは真っ赤な嘘だ! それに召使いが、奴隷でないなら、いったい何だろう?...道義的卑劣、余儀なき腐敗、憎悪を生む反抗について、奴隷制度のともなう一切を有するのだから、事実上の奴隷だ」。そして現代の奴隷の密売人は、破廉恥ながら合法的な、口利き屋というあっせん所であり、それらはいわゆる「慈善的」、あるいは「博愛的」団体に引き継がれ、神の名で、あるいは近しい者への愛を盾に、新たな奴隷の汗と血によって咎めも受けずに肥え太る。

  • 召使は階級から脱落した「はぐれ」者、「化け物じみた、人間の雑種」であり、もはや「自らが属していた民衆」ではなく、まただからといって「自らが暮らしまた目指すブルジョワジー」にも属さない。
  • 不安定さが彼女の運命である。小間使いは主人の気まぐれによって、たらいまわしにされる。
  • 彼女たちはそろばん片手にこき使われる。
  • 彼女たちは在宅のセックス・ワーカーとして―欲求不満の亭主たちのはけ口、筆おろしの世話をし、家に引き留めなければならない息子らの、道案内として扱われる。
  • 彼女たちは、ゆるぎなき良心の持ち主である主人らによって、何かにつけ侮辱される。彼らは奉公人を畜生あつかいするのだ。
  • 彼女たちは雇い主によりイデオロギー的に疎外されている。したがって同じ武器では戦えない。というのは反抗と解放の希望をあたえる知的な糧が見出せないから。

したがって、ミルボーは虐げられた者たちが、悲惨な状況を自覚する手助けをすると同時に、恒常的なこの恥辱を終わらせるために、為政者が介入せざるをえなくなるような騒ぎを、世論に惹起しようとする。規則のもとでの濫用を、そして美しい見場の下に意外な社会的悲惨を、我々が発見せざるをえないようにしながら、「この世の貧しき者と苦しめる者たち」に深い憐れみを表明する。ゾラが彼にしたためているように、彼はそれらの人々に、「自らの心」を与えた。

非人間的な社会秩序にたいするこの嫌悪と反抗は、永続する実存的嘔吐感に根づいている。そして支配層の道徳的腐敗は世界的な腐敗を反映し、そこからあらゆる生命が芽ばえる。「『小間使の日記』からは肉の腐敗と魂の退廃のたまらぬ匂いが発散し、それがこの作品を死の雰囲気の下においている」とセルジュ・デュレは書いている。「エントロピーの法則が肉体を支配している」-そして魂も。ここでは人間の服する条件のもたらす悲劇は、日常性の言及されるあらゆるせつなに、その日常性が有する空虚で、卑俗でしかも下劣な一切のうちに湧き出る。セレスチーヌが苦しむ「倦怠(アンニュイ)」はアンドレ・コント-スポンヴィルが指摘するように「虚無の体験」である。サルトルよりもはるか前、ミルボーはわたしたちに真の実存的「嘔吐(ノゼ)」を引き起こそうとつとめたのだ。

エクリチュールによるセラピー

しかしながら、作品の雰囲気がどれほど息苦しくかつ病的なものであり、否応なく腐敗と虚無に運命づけられた人類の展望が、どれほど絶望的なものであっても、いま一度、拷問としてのエクリチュールは甘美なセラピーに変貌する。世界弁証法のあらたな例証。嘔吐の原因が元気を与え喜びにみちたものと化す。われわれの欠陥を並べ立てると楽しみの渦が広がる。絶望の底から、馬鹿げた生活をしのぎやすくする、改善の意思が明確に現れる。嘔吐は「上昇」と社会参加に不可欠の第一段階にすぎない。そしてミルボーは、ボードレールのように、よそに晴朗さを、さらには精神的開花を求めるように、泥の中に、腐乱死体の中に、「瘴気」の中に我々の首を突っ込ませるだけなのだ。

日本語訳オクターヴ・ミルボー 著、山根政義 訳『或る小間使の日記 4版』改造社、1923年。OCLC 672440452全国書誌番号:43055348

なお、ルイス・ブニュエル監督の映画『小間使の日記』では、雑誌『アートシアター』第40号 (1966.4) で特集を組んでいる。

内容は、シナリオ荻昌弘(作品研究「小間使の日記」)、渡辺一民(三つの日づけ―98年と34年と64年)、林玉樹(ブニュエルの執念)、松本俊夫(ランボオとマルクスの統一 ルイス・ブニュエルの根底にあるもの)、永井順(原作について)、戸張智雄(ノルマンディーと靴)などが掲載。

映像化作品