『砂の女』
主人公は男なのだが、タイトルは『砂の女』。主人公は普通の男。だったらタイトルは『普通の男』では?それではつまらない。
あえて『普通の男』としてそれが面白い場合もあるだろうが、これはその場合ではない。
この主人公の男がカメラで、視聴者は、この男を通して、砂の女という非日常の現場を体験するのだ。しかし、非日常かと思ったこの現場は、実は人間社会そのもの。
昭和の歌謡曲によく、「こんな都会のコンクリートジャングルで、俺達の心は干からびて、恋の一つもできやしない、行き場所なんかどこにもない......」というようなものがあったが、そのコンクリートジャングルを砂に変えた版。
正に蟻地獄。正に人間地獄。正に閉じた共同体地獄。正に過疎の問題。正に男女の問題。正に弱肉強食。正に長い物には巻かれろ。正に住めば都。正に貧すれば鈍する。
岸田今日子さんの、ムーミンから砂の女までという芸域の広さが、一人揺り籠から墓場までという感じがした。
この映画は、正に安倍公房。正に武満徹。正に勅使河原宏。
冒頭タイトルバックからもう前衛芸術。
等高線地図の、ある集落部分に、ハンコが密集押印。それが、ここに人が住んでいますよサイン。拇印の人もいて、それが血判めいていて怖い。五人組的怖さ。監視していますよ的怖さ。女と男の家部分は、女と男の裸体の絵。
音楽には抜けがある。ベターッと鳴らない。抜いてゆく。休符が目立つ楽譜という感じ。
つまり、過疎の村と女につかまっちゃた都会の男の話なのだが、それは悪夢版寅さんでもある。寅さんは、地方に行って女につかまりたい人、つかまえられるために一人地方巡業している人。
しかしこの映画の男は、砂に棲息する昆虫を採集しにきて、自分が砂の村に採集され女につかまったのだ。
上には上がいる構造というか、藪から棒的突如感というか、何かに集中しているとその背後から網にかかるというか。
脱走を試みるも失敗。昔聞いた、「人を狂わせるのは簡単。穴を掘らせ、次の日にそれを埋めさせ、を一か月繰り返せばみんな狂う」という話を想起。この話は人は無報酬に耐えられない、ということだろう。無報酬でも耐えられるというのが宗教。信仰心。
男は女を妊娠させるところまで適応した。苦しみ出した女が子宮外妊娠かもしれないと、村の有力者たちに穴の底から引き上げられると、縄梯子は引き上げられ忘れている。男はそれで穴の上に出て、ずっと見たかった海を見た。しかし、男はそのまま脱走せず、なんと砂の底の家に「帰宅」するのだ。お客さんが住人になった証拠シーンだと思った。
男は、ここで長い物に巻かれていれば、それなりに生活できると理解した。だから脱走というリスクを取らなくなったのだ。
ここの人たちは、馴染めば「良くして」くれる。
逆らわなければ、生き延びられる。
岸田今日子さん演じる女は、夫と娘を砂災で亡くし、是非とも男手が欲しいのだ。
男は、そんな砂の村と女にとって、飛んで火に入る夏の虫。
何て災難。と思いきや、観ているとこれは誰もの話だと気づく。この男は、現代の一市民の象徴。適応して気を使い生き延びるしかない、現代の人間そのもの。
「帰宅」した男は、自分の希望を眺める。男は、カラスの罠を作っていた。罠にカラスが引っかかったら、その脚に助けてくれのメッセージを伝書鳩のように付け、飛ばそうとしていたのだ。その砂の下の桶に、なぜか水が溜まる。海水ではなく、飲める水。水は上から配給で下ろしてもらうしかなかったのだが、これは毛細管現象で砂がポンプの役目を果たして集まっているらしい、もしこれが永続化できれば、もう水には困らない、と男は思い、このアイデアを砂の村の人たちに話したくて仕方なくなっているのだ。それは希望と名付けるべきものだが、もう逃げられない決定打、とも言える。
結末は二通り言えて、「男は砂の村に水の供給という利益をもたらし、やっと本物の住人になれましたとさ。」又は「男はそうして、小を成して大に帰ることができなくなってしまいましたとさ。」。
どちらも、それが大人になるということ。
しかし、全方位にいい顔はできない。あの人
しかし、全方位にいい顔はできない。あの人終わったね、とあるコミュニティーで言われている人が、別のコミュニティーの新人だったりする。
究極は、本人当事者が、それで幸福か、ということ。
男の戸籍上の名は仁木順平なのだが、それが全く意味をなさない、役に立たない。そのことにもゾッとする。男は女からも村人からもお客さんと呼ばれ続ける。男がよそからやってきたということもあるが、ここは、戸籍などの通用しない、治外法権的ムードの村なのだ。隠れて存在している部落というか。国から自治体認定の許可が下りない無許可の自治体というか。しかし、だから、本当に自分たちだけで自治するしかなく、その構造が弱肉強食であり、上意下達。言う事を聞かない者、この共同体に害をもたらす者は密かに消される感じ。それが怖い。監獄的。法が無いからつまり有力者のリンチ(私刑)で罰せられる。その「有力者」に取り入ろうとし始めると卑屈にならざるを得ず、そうなるとブライドなど失うから、それが怖い。
全てのシーンが印象的だったが、最も強烈だったのは、男が女を、束の間海を見る許可を得るために、強引に性交しようとしたシーン。穴の上から覗く村人たちの前でそれをしたら、村の「お上」が許可を出すというのだ。男は女を家から引きずり出し、公開性交しようとする。そこで女は、初めて男に逆らう。
自己肯定感の低い女は、男をいい気分にさせよう、ここにずっといてもらおうとそれまで必死だった。放っておくと家々が埋没するため砂を上に上げる仕事も男にはなるべくさせず、内職もしていた。まるで都合のいい、昔の内助の功妻。
しかしここでやっと、そこまでは出来ないラインを女は確認したのだ。
ここが人格の底つき。獣と人間の境目。「馬鹿、馬鹿、」と女は抵抗する。これは「嫌よ嫌よも好きの内」とか「馬鹿とは愛してるの異名」などというふざけたものではない。本気で男を獣認定して蔑み貶めているのだ。
岸田今日子さんが、そういう女を演じきっている。この女も、よくいる女。女そのもの。(昔の)女の弱さ狡さを体現している役。
観ていると、とにかく喉と心が渇く映画だった。
騙し騙され、需要と供給。女だけではなく人三界に家無し、と思った。
しかし、希望のみが人を救う。その希望とは、個人的なものから利他的なものに成長する質のものでなければ、光とはならないのだろう。
この映画は公開当時、非常に前衛的な作品として受け止められたのだろう。
この動画を想起した。
★砂の女(すなのおんな、英: Woman in the Dunes)は、1964年に公開された勅使河原宏監督
★勅使河原 宏
(てしがはら ひろし、1927年〈昭和2年〉1月28日 - 2001年〈平成13年〉4月14日) は、日本の芸術家。草月流三代目家元。映画、いけばな、陶芸、舞台美術、オペラなど様々な分野で活躍した。妻は女優の小林トシ子。
ATG初の日本映画の監督であり、安部公房原作の作品群ではドキュメンタリータッチを基本にしたシュールレアリズム溢れる映像美で世界的にも評価された。★
の日本映画。安部公房による同名の小説が原作。
概要
安部公房の『砂の女』をもとに勅使河原が自ら脚本を執筆[1]。音楽に武満徹、
タイトルデザインに粟津潔
(「銀の海に金の亀」(1972年)横浜市営地下鉄ブルーライン上大岡駅構内)
など当時の日本を代表するアーティストが参加したほか、主演にはフランス映画『二十四時間の情事』
への出演で国際的に名を知られるようになっていた岡田英次と、
三島由紀夫の戯曲上演で活躍していた岸田今日子が抜擢された。
千浜砂丘で行われた[2]。
封切は1964年(昭和39年)2月15日にみゆき座ほか東宝系列の洋画ロードショー。そして同年4月14日に全国公開となった。
公開時の惹句は「突然 ある日 仁木順平は失踪した ずりおちた穴の奥深く 激しく開く女がいた[3]」である。併映は岡本喜八監督作品「ああ爆弾」(主演:伊藤雄之助)。
受賞記録
国内
- キネマ旬報ベストワン(作品賞・監督賞)[5][6]
- ブルーリボン賞(作品賞・監督賞)
- 毎日映画コンクール(作品賞・監督賞)
- 優秀映画観賞会ベスト1位
- NHK映画賞(作品賞・監督賞)
- ホワイト・ブロンズ賞(地方映画記者会賞)
海外
- 第17回カンヌ国際映画祭審査員特別賞[3]
- サンフランシスコ映画祭外国映画部門銀賞
- ベルギー批評家協会グランプリ
- メキシコ映画雑誌協会賞
- 第37回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
- 第38回アカデミー賞監督賞ノミネート
キャスト
スタッフ
- 原作・脚本:安部公房
- 製作:市川喜一、大野忠
- 製作主任:吉田巌
- 撮影:瀬川浩
- 音楽:武満徹
- 美術:平川透徹
- 照明:久米光男
- スチール:吉岡康弘
- 録音:加藤一郎、奥山重之助
- 音響効果:森啓二
- 製作:勅使河原プロダクション★