東大現代文を統一的に読む~東大現代文の3つの思想「無意識・非個人性・超日常」 第4回 2001年度第一問
2001年度第1問 作家の「孤独」と「無意識」を読み取る
1.文学と孤独という〈像〉
これまで述べてきた事を踏まえて2001年度第一問を読んでみましょう。カリフォルニア州生まれの米国人日本語作家リービ英雄氏のエッセイ「ぼくの日本語遍歴」(『日本語を書く部屋』所収、岩波現代文庫、2011年)からの出題です。
本問は東大現代文随一といってよい名作中の名作問題ではないかと思います。構成の妙、問題提起とその展開、段落相互のつながりの論理性、言葉の結びつきの横断性、具体例の美しさ。中途での静寂のあと、場面を中国大陸に移してからの文章の疾走感。まさに文章が走り始め、加速していきます。それは、筆者の中の何かが走り始めたことの素晴らしい表現となっています。そして、また日本に、新宿の部屋に戻ってからの、静謐な空気感を感じさせる描写の美しさ。表現の滋味深さと同時に東大の設問の工夫もまた印象深く、文章の意味や構成はこういう視点から捉えるものだと教えられるような設問となっています。
本連載の第1回でも述べたように、本問の最後の設問はなにをどういうふうに書き、まとめればよいのかわからないような難しいものとなっています。そこで、前回述べたように、本問以前に出題された1996年度第五問(本連載第3回を参照、さらに後年に出題の2020年度第四問)と、同じ年に出題された2001年度第四問に書かれた内容を導き手として読めば、どういう世界が見えてくるのかということを叙述していきたいと考えています。
前回、本問は、1996年度第五問と2020年度第四問に書かれた思想の「変奏」だと述べました。これらの問題と本問との内容的なつながりが見えてくれば、東大の現代文の過去問を読むことがこの上なく楽しいものと、おのずと感じられてくると思います。東大の過去問はあちらこちらでその内容がつながっています。さらに本問には姉妹と言えるような問題があって、また最後に紹介してみたいと思っています。
また、本問は少なくとも過去40年間では東大国語第一問としては唯一のエッセイとなっています。なぜ、そうした異例の形式で出題されたのか、その理由は設問(五)にあると私は考えています。本問は「国語の第一問の設問形式」で出されてこそ味わい深い問題となったのだと思われます。言いかえると、第一問にエッセイを配するということをしてまで、なんとしても東大はこのリービ英雄氏の文章を出題したかったのだと想像することができます。また、皆さんも、その理由を考えてみてください。
さて、本問を読むためにいかなる〈像〉が必要か、本問の文章の〈像の全体性〉をつかむためにあらかじめひとつの思想、〈文学の像〉というべきものを東大現代文から学んでおこうと思います。それは本連載の第1回でも一度紹介した、本問と同じ年、2001年度の第四問に書かれていることです(岡部隆志『言葉の重力―短歌の言葉論』、洋々社、1999年)。「文体」というものについて書かれたその最終段落に次のようなくだりがあります。
〔引用文〕
文体がもっている伝えがたいものとは何だろう。「孤独」といういい方をすればかなり当たったいい方になるだろう。われわれの文学的な言葉が抱え込む共通の価値を一言でいえというなら、それは「孤独」である。小説や詩を評価するのに、例えば「ここには孤独が感じられる」といえば誉めたことになる。それが何よりの証拠だ。この「孤独」をどう描くかというところに、われわれの文体の一つの目的がある。(強調は引用者)
ここには「高等学校段階まで」に文学についてまず踏まえておくべきことが東大からのメッセージとして、問題文を通じて書かれていると思います。文学とはどういうものか、それは「孤独」ということに関わるものだ、ということです。多様などのような文学論、前衛的な文学理論があろうとも、「高等学校段階まで」に絶対に踏まえておくべきことはこれなのです(1)。
そうであれば、文学者が書いた文章に向かうときには、その文学者の文体が、いかにその「孤独」を描いているのかを読むことができれば解答に至りつくことができるということになるでしょう。
米国人作家リービ英雄氏が、日本語で小説を書いてきた経験を辿るこの問題文を終わりまで読むと、最後の言葉、「世界がすべて今の、日本語に混じる世界となった」に至るまでのリービ氏のいわば日本語における「成長物語」であると言えるのではないかと思います。自身の「成長」が、ニュアンスに富んだ美しい表現で描かれています。この文章全体の〈像〉をまずはたしかに心得ておきましょう。
本文を一読して、この「成長物語」のゴールのイメージを持っておきましょう。最後のふたつの段落です。
〔引用文〕
北京から東京にもどった。新宿の部屋にもどった。アメリカ大陸を離れてから、6年が経っていた。新宿の部屋の中で、二つの大陸のことばで聞いた声を、次々と思いだした。「天安門」という小説を書きはじめた。
二つの大陸の声を甦らせようとしているうちに、外から眺めていた「Japanese literature」すら記憶に変り、世界がすべて今の、日本語に混じる世界となった。
すべての文末が単純な「過去形」で書かれています。ここには筆者のリービ英雄氏の自身のなかで「なにかが終わって、自分にとって確かな新しい生が始まった」という感慨がこのうえなく伝わってきます。
このリービ氏の到達点をたしかに心得ておきましょう。この文章は、この到達点に達したリービ氏が振り返って書いたものです。リービ氏が自らの過去の出来事や感情を位置づけていきます。
それぞれの設問は、見事なまでにその「位置づけ」を問うものになっています。五つの設問の解答をつなげれば、リービ氏の「成長」がたしかに描き出される、そういう設問になっています。
それでは、本文を最初から読み進めていきましょう。
2.本文の展開 なぜ日本語で書いたのか 引っ掛かりのある表現を読む
十代の頃、「日本語は美しいから、ぼくも日本語で書きたくなった」と思い始め、その後日本へ渡った体験を基に日本語で小説を書きます。この初めて日本語で小説を書いた体験について、リービ氏はつぎのように書いています。
〔引用文〕
日本語は美しいから、ぼくも日本語で書きたくなった。十代の終り頃(ごろ)、言語学者が言うバイリンガルになるのに遅すぎたが、母国語がその感性を独占支配しきった「社会人」以前の状態で、はじめて耳に入った日本語の声と、目に触れた仮名混じりの文字群は、特に美しかった。しかし、実際の作品を書く時、西洋から日本に渡り、文化の「内部」への潜戸(くぐりど)としてのことばに入りこむ、いわゆる「越境」の内容を、もし英語で書いたならば、それは日本語の小説の英訳にすぎない。アだから最初から原作を書いた方がいい、という理由が大きかった。壁でもあり、潜戸(くぐりど)にもなる、日本語そのものについて、小説を書きたかったのである。
「しかし」以降、なにか引っ掛かるものを感じる文章ではないでしょうか。
★まず、「文化の『内部』への潜戸としてのことばに入りこむ、いわゆる『越境』」とありますが、「越境」とは通常「ことば」の話のことでしょうか。言葉をも含めた文化総体や生活総体への入っていくことが「いわゆる『越境』」なのではないしょうか。
★また、「日本語そのものについて、小説を書きたかったのである」(強調は引用者)とありますが、論文のような「日本語論」を書いたわけでもなさそうだし、「日本語そのものを小説で書きたかったのである」とでも書けば済むことではないのでしょうか。こうした疑問もわいてきます。
「日本語そのものを」と「日本語そのものについて」、「を」と「について」との差異は何なのでしょうか。「について」という一読して不自然に響いてくる言葉がなぜ書かれたのでしょうか。
★あるいは、「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのもので小説を書きたかったのである」という書き方もありうると思われるところです。「について」と「で」との差異は何なのでしょうか。
①日本語を書きたかった
②日本語で書きたかった
③日本語そのものについて書きたかった
この三つの表現のうち、3番目の表現の特異性はどこにあるのでしょうか。
★また、たんに「日本語」とするのと「日本語そのもの」とするのとでは、このふたつの表現にどのような差異があるのでしょうか。
細かいことですが、まさに東大はここを問うてきます。ここで東大の設問に立ち止まってみましょう。
★それと「潜戸」(通例では「潜り戸」と表記されます)という比喩表現です。リービ氏は数ある「入り口」を意味する言葉から「潜戸」という言葉を選びました。「潜戸」とは、「くぐって出入りするように作った小さい戸、またその出入口」(広辞苑)を意味します。たとえば、寺の門の横にあるのを思い出すかもしれません。
「潜戸」という入り口は、大手を振って入っていくようなものではありません。かがんで遠慮がちに入っていくような入り口です。リービ氏にとって、日本の文化の「内部」へ入っていくための日本語は「潜戸」であって、門や自動ドアではないのですね。自分の日本語がどれだけのものか、どれだけ日本で理解したり、何かを伝えることができるのか、こうしたことへの期待や不安を印象づける言葉が選ばれているのです。日本の文化の内部へ入っていくときの第一の手段とはいえ、控えめなものというニュアンスを十分に表す言葉となっています。
★それから、「日本語の小説の英訳」、傍線部アの「最初から原作を書いた方がいい」などの表現もまた、何が問題なのか、その内実を解釈しなければいけない言葉です。
★また、「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのもの」という箇所では、まず、「壁(障害)」になることが、「潜戸(控えめな手段)」よりも先に書かれていることが引っ掛かってきます。
東大の設問(一)は、その下線部アについて、「筆者が日本語で小説を書こうとした理由はどこにあると考えられるか、わかりやすく説明せよ」というものです。上述のように引っ掛かりを感じる文章の言葉の解釈の問題として、言葉の一語一語について丁寧な読解を求めた大変印象的な問題です。
リービ氏が日本語で小説を書こうとした理由は、「……もし英語で書いたならば、それは日本語の小説の英訳にすぎない
」ということ、これを言い換えて、「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのものについて、小説を書きたかったのである」と述べられている箇所にあります。この箇所を解釈し、その内実を展開しなければなりません。
「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのもの」とは、素直に読めば、「壁」とは日本の文化の内部に入るための「障害」であり、「潜戸」とは小さい入口、いわば「控えめな手段」です。そういうものとしての「日本語」なので、日本の文化の内部に入るために使われた日本語、つまり、実際に日本の生活で関わった日本語ということになります。
そこで、解答の大きな緩い枠踏みはこうなるでしょう。
「障害(壁)にもなれば控えめな手段(潜り戸)にもなる日本語を書きたかった、言いかえると、実際に日本で、話し、聞き、読み、書くなどした日本語、実際の日本語体験を書きたかった。たとえば、その実際に体験したニュアンスを書きたかった。そのためには英語でなく、日本語で書かないといけなかった」
この大きな枠組みに、「いわゆる『越境』」、「日本語そのものについて」などの一読して不自然な表現の意味するところを付け加えれば解答の完成です。
繰り返せば、ここでの大きな問題は、次のふたつです。リービ氏のいう①「越境」とは、具体的にはどういうことなのでしょうか。また、②「について」とはどういうことなのか。特に「日本語そのものについて」という文言を解釈して、このふたつのことを関連づけながら、この段落を読んでほしいということが本問の最大の意図でしょう。
これらの言葉を、下線部の「日本語の小説の英訳にすぎない」、「最初から原作をかいた方がいい」などの文言との関係でいかに考えるのかという難問です。
ひとつ余談です。哲学者の芦田宏直氏は、次のように大学という場所の意義を述べたことがあります。
〔引用文〕
高橋允昭というデリダ研究者(注:デリダはフランスの哲学者、1930~2004)はavecっていうデリダが使った前置詞(注:ほぼ英語のwithに当たるフランス語)の訳をめぐって、二行くらいの文章を一年間かけて考えさせてくれました。二行のフランス語、しかも一つの前置詞のためだけに一年をかけたんですよ。こんなことは高校までの授業ではありえない」、「高橋先生のお蔭で一つ、一つの言葉にこだわる根性みたいなものを学べました」と(強調は引用者)。(2)
この設問で東大はまさに、「一つ、一つの言葉にこだわる根性」を問うているとは言えないでしょうか。なぜ、一見不自然な「について」という言葉が使われているのか、この一語をどう読み、どう考えるかを問題にしているのです。もう一度先の引用文の後半を見てみましょう。
〔引用文〕
しかし、実際の作品を書く時、西洋から日本に渡り、文化の「内部」への潜戸(くぐりど)としてのことばに入りこむ、いわゆる「越境」の内容を、もし英語で書いたならば、それは日本語の小説の英訳にすぎない。アだから最初から原作を書いた方がいい、という理由が大きかった。壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのものについて、小説を書きたかったのである。
やや回りくどい文章であるという印象を受けるのではないでしょうか。この回りくどさが表しているのは、当時のリービ氏の日本語に対する様々な思いの交錯でしょう。先に少し触れたように、この問題文は後半になって文体が走り始めます。加速し、疾走し始めます。この引用部分はそれに比べていわばジグザグ歩行になっています。この引用部分からは、リービ氏が日本語に対してひとり逡巡する「孤独」が十分に感じられます。
★「越境」という言葉の内実について
リービ氏にとって、「文化の『内部』への潜戸(くぐりど)としてのことばに入りこむ、いわゆる『越境』の内容を」書くことが問題でしたが、この引っ掛かりのある文章からはどんな〈像〉が浮かびあがってくるでしょうか。先述のように、「越境」ということが言われるとき(たとえば国家間において)、通常それは「ことばに入り込む」だけでなく、言葉をも含んだ生活や文化の全体というものに入っていくことを意味するのではないでしょうか。文化の「内部」へ入っていくこと、さらに広く、生活や社会の総体へと入り込むことを一般的には「越境」という言葉で表すのではないでしょうか。「いわゆる」という言葉を使うのであれば、こうした意味の越境にこそふさわしいのではないでしょうか。
「越境」とは、「境界線や国境を越えること」(広辞苑)、「境界、特に、国境を不法に越えること」(大辞林)などと辞書では定義されます。
しかし、例えば文学的なニュアンスをもたせて使われることも多い言葉です。それまでの生活を捨てて、まったく異なるような世界へと入っていくことなども表現する言葉です。日本での生活に倦み、新しい世界を求めて「インドへ越境する」などとも言われます。もっと文学的な例だと、19世紀のフランスの天才的な詩人、アルチュール・ランボーは、20歳で詩作を放棄し、労働と放浪の後、26歳でアフリカに渡ります。これはヨーロッパ世界との文化的、地理的な大きな決別です。ヨーロッパ的なものと対峙し続けたランボーの「ヨーロッパからアフリカ大陸への越境」などと言われます。
たしかに自分の母語以外に魅力を感じて、たとえば、「日本語から韓国語へと越境する」などと言われることがありますが、「越境」とは、「生活総体や文化総体の異なる場所へ行く」ということが通例(いわゆる)で、異なる国語間での事として言われることの方が少ないでしょう。
ところが、リービ氏は「ことばに入り込む」ことを「いわゆる『越境』」と書くのです。考えられることは、リービ氏は、この表現によって、自分にとっての日本とは何よりも「ことば」の世界だということを強調しているのではないかということです。日本語と自分との間にある距離を縮めていくということがなによりの課題という意味が込められていると思われます。
その後の、「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのものについて、小説を書きたかったのである」という箇所では、「日本語そのもの」は、いわば日本文化の内部に入り込むための「壁」(障害)としても、「潜戸」(控えめな手段)としてもある日本語ということであり、「潜戸」という言葉が再度登場しています。先の「文化の『内部』への潜戸(くぐりど)としてのことばに入りこむ、いわゆる「越境」の内容を、もし英語で書いたならば(後略)」という箇所とは、次のように対応しています。
「文化の『内部』への潜戸(くぐりど)としてのことばに入りこむ、いわゆる『越境』の内容」を書く
=「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのものについて」「小説を書きたかったのである」
(※「いわゆる『越境』の内容」を書くことと「日本語そのものについて小説を」書くこととの関連については後述します。)
つまるところ、リービ氏にとって「日本語」は、①他国の文化や生活総体への(通例の意味での)「越境」のための手段や障害である。同時に②特別の「越境」の対象でもある、すなわち自分にとって、関わっていきたい強い関心対象でもあるということが強調されて位置づけられていることになります。
自分がどれだけ日本語に強い気持ちを持っているのか、ということを表現するための修辞的な表現となっています。
まとめてみます。他国の言語に入っていくこともたしかに「越境」といえるでしょう。しかし、それは、あくまで生活や文化の総体へ入っていく「越境」というものの一部分であると見るのが一般的な「越境」という言葉の用法のはずです。「いわゆる」という言葉を使うなら、この一般的な「越境」のはずです。
ところが、リービ氏は、言葉(日本語)というものこそが越境の核心であるということを強調する書き方をしていました。それが、「ことばに入りこむ」ことを「いわゆる『越境』」とする表現でした。日本との関係で、自分にとっての「越境」とは、「日本語」の問題なのだということが見事に響いてくる書かれ方です。日本語に対する自らの気持ちの強さ、関心の大きさを説明するのに、「いわゆる」という一語が自在に使われています。まさに日本語を操っているというほかありません。
この「越境」とは日本語に「入りこむ」ことでした。ここでの「日本語」とは、「西洋から日本に渡り、文化の『内部』への潜戸(くぐりど)としてのことば」のことですから、「日本に渡り」、その後に関わった日本語だということになります。言いかえると、リービ氏が聞き、話し、読み、書くなどした日本語です。これが、リービ氏にとっての何よりの「越境」体験、日本語で書きたいことでした。
こうした引っ掛かりを残していく表現は、自身の日本語体験の当初のとまどいを強く印象づけます。本エッセイを書いた時には、母語のように日本語で書けるようになっていたリービ氏の細かな技、まさにリービ氏の日本語における「成長」を証する表現技法だと感じられます。
(※ここでひとつ言葉の意味についての整理をしておきます。それは、「母語」と「母国語」についてです。
「母語」とは「人が生まれて最初に学び、覚える言葉」という意味であるということは確定しているようです。
他方、「母国語」の意味では争いがあるようです。「母語と同じ意味」、「国籍がある国の言葉」、「自分が生まれた国の言葉」などの意味を持つと主張されています。
例えば、「日本生まれのフランス国籍で、生まれて最初に覚えたのが日本語」というセザンヌ君の「母語」は日本語です。しかし、彼の「母国語」は、「母国語」という言葉の意味次第で、日本語ともフランス語とも、どちらにも言えるということになります。)
では、こうした「越境」という言葉の解釈は、設問の解答にどう反映されるのか、これについては次の項目で述べることにします。
★「日本語そのものについて」という不思議な文言について
「……いわゆる『越境』内容を、もし英語で書いたらば、それは日本語の小説の英訳にすぎない」という表現がありました。この「越境」とは日本語に入り込むことでした。すると、「英訳にすぎない」とは、ひとまずは、「これほど日本語を愛する自分が日本語で書くよりも、その翻訳のようなことをすることは考えられない」というリービ氏の気持ちや、英語で書くことは実際に経験した日本語のニュアンスを減殺するものではないかという趣旨を言うものと考えられます。
そうすると、「最初から原作を書いた方がいい」という表現は、当時のリービ氏にとっては日本における日本語の体験(リービ氏の言葉でいえば「越境」)を日本語で表現することにこそ意味があったということの修辞的表現ということになります。設問に解答するためには、この修辞的表現の内実をさらに考えなければなりません。
日本語で書いてこそ意味があるということ、リービ氏が「日本語で小説を書きたかった」理由は、「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのものについて、小説を書きたかったのである」ということにあります。
あらためて言うと、ここでの日本語は日本文化の内部に入り込むための障害でもあり、控えめな手段にもなるというものです。そして、自分にとっての日本とは何よりも日本語という言葉なのだということが強調されていたのでした。すなわち、最初に言われていた「越境」という表現がなによりも日本語への関心を強調するためのものであったのでした。
さらに、先に「日本語」と「日本語そのもの」というふたつの言葉の差異とはなにか、という問題を提起しました。やはり、その答えも「強調」です。自分にとっての最重要なものは、日本語という言葉なのだ、ということの強調です。日本語というものに向かうリービ氏の強い衝動が感じられます。
そこで、「壁でもあり、潜戸にもなる日本語そのものについて、小説を書きたかったのである」という箇所は、次のように考えられるのではないでしょうか。
①日本語とは、「壁でもあり、潜戸にもなる」ものでした。すなわち、日本語が日本での生活にとって障害になったり、控えめな手段になったりしたあり様こそが「越境の内容」です。日本に渡ったリービ氏は実際に生活場面で十全なものではないながらも日本語を使ったのでした。その「日本語そのもの」を描きたかったのではないでしょうか。
面白いのは、先述のように、「壁でもあり、潜戸にもなる」と、まず障害になるということが先に書かれていることです。壁としても大きく感じられていたのでしょう。そして、「~でもあり、~にもなる」という書き方がされています。そうした「障害と控えめな手段」がまさにめまぐるしく展開していくあり様こそリービ氏は書きたかったのではないでしょうか。
「私」、「ぼく」、「あなた」、「きみ」などの人称の言葉遣いで人間関係の距離が変わった体験もあったかもしれません。言いたいことが伝わらず辛いことになったかもしれません。こうして実際に接した日本語をそのニュアンスのままに書きたかったと考えられます。言い換えると、壁にも潜戸にもなったというそのことを書きたかったのです。日本語のもつニュアンスこそは日本の生活総体に入っていくときの手段にも障害にもなりうるものだからです。そして、そうしたニュアンスは、英語で書くと消えてしまいます。
こうしたことが、「……日本語の小説の英訳にすぎない」という文言から考えられることです。地の文による状況説明などは英語のでもいいかもしれませんが、リービ氏が感じた会話などでの日本語のニュアンスは英語では表現されません。
先に「人称」の話をしましたが、日本語の「ニュアンス」の例をもうひとつ考えてみます。リービ氏が仮に「情けない」という日本語を知ったとすれば、この言葉をそのまま書きたかったというようなことです。これを英語でdeplorableなどと書くと、「情けない」のニュアンスとかなり異なってしまうので、日本語で話し、聞き、読んだことなどはそのまま日本語で書くことにしたのではないかと想像できます。これらの言葉をそのまま日本語で表現したかったと考えられるのです。
②「について」という表現についてあらためて考えてみます。「について」とは、なにかを対象としたり、テーマにしたりするときに用いられる言葉です。すると、日本語に魅かれたリービ氏にとって、日本語とは自分自身のもっとも切実な関心対象であり、テーマだったのだと考えることができそうです。このことを「日本語そのものについて書きたかった」と表現したとも考えられます。
そして自分にとってのテーマとしてあった日本語を、実際に日本において聞き、話し、読んだなどの具体的体験の意味は大きかったでしょう。その体験の意味や重さは実際に体験した日本語をそのまま書くことを置いては表現されないものだったと考えられます。さらに日本での生活を日本語で表現することが、日本文化や生活に入り込むための控えめな手段あるいは障害というあり様で存在する日本語という自身のテーマの展開になるものだった、こういうふうに考えることもできます。
ただ、生活における日本語にたしかに触れたとしても、自身と日本語との間には次のような「距離感」が残っているため、このことを日本語そのものに「について」というふうに表現したと考えることもできます。
★「について」という言葉のニュアンス「距離感」
そして、さらにこうしたことに加えて、「について」という語について、くみ取るべきニュアンスは、リービ氏と日本語との距離でしょう。
「~について論じること」と「~の中にいることは」異なることだ、というようなことが言われることがあります。
まさにリービ氏にとって、日本語がまだ十分には自分のものとはなっていないものとしてあったことを、日本語そのもの「について」と書いたと考えられます。
先述のように、「越境」という言葉も「自身と日本語との距離を越える」意味が強調されていました。「生まれと育ち」が日本とかかわりなかった米国人のリービ氏にとって、日本語は内的に「自然」なものとして感じられるものではなかったはずです。たとえ、日本語にどれだけまるで本来の自己を感じるような親しみを感じていたとしても、はじめからその中でどっぷりと浸かって生きてきたものではなく、外の対象としての側面(テーマとしてのありよう)を持たざるをえないものであったはずです。
また、対象といっても、それは、日本で生育し、自然過程として日本語を身に着けた者が、学者的にあらためて日本語を対象として捉え直し、考えていこうとすることとはちがったことでした。日本語はとにもかくにも自分と距離のあるものとして存在するのであって、まだまだどっぷりとそこに浸かったことのないものとしてあったのです。この距離が「について」という語によって見事に表現されています。
★設問(一)解答例
日本語は未だ距離を感じる大きな関心対象としてあり、実際に日本語での経験をしたことの重みと、その際の日本語の生きたニュアンスをそのまま書きたかったから。
(※非常に細かく、読んでいて引っかかっていく感覚を残す一語一語について解釈してきましたが、実は、まるでこの東大の設問に答えるかのようなことを、のちの著作で書いています。『我的日本語 The World in Japanese』40頁、筑摩選書、2010年)。
3.リービ英雄が向き合っていたふたつの問題 そしてひとつめの問題(民族と日本語)の行方
続いて、当時の日本における、生まれた時から日本語を共有しない外国人と日本語との関係という事柄をめぐる状況が描かれます。
〔引用文〕
ぼくにとっての日本語の美しさは、青年時代にイおおよその日本人が口にしていた「美しい日本語」とは似ても似つかなかった。日本人として生まれたから自らの民族の特性として日本語を共有している、というような思いこみは、ぼくの場合、許されなかった。純然たる「内部」に、自分が当然のことのようにいるという「アイデンティティ」は、最初から与えられていなかった。そしてぼくがはじめて日本に渡った昭和四十年代には、生まれた時からこのことばを共有しない者は、いくら努力しても一生「外」から眺めて、永久の「読み手」でありつづけることが運命づけられていた。母国語として日本語を書くか、外国語として日本語を読んで、なるべく遠くから、しかしできれば正確に、「公平」に鑑賞する。
リービ氏はふたつの問題を強く感じ取っていました。いわば「問題提起」の場面です。現代文の問題はその書き手が直面した問題に応えるものだということを思い出しましょう(すべてではありませんが)。
①日本人という民族ではないという問題
生まれが日本人でない者は、民族の特性として日本語を共有しているとは認められなかった、いわば日本語の響きやニュアンスは日本民族のもつ特性と不可分一体のもののように考えられていたということ。
★設問(二)の解答例
日本人という民族の特性の言語面での現れとして、日本人のみが感じ、共有しうると考えられる音の響きや意味の広がりなどを持つ言葉。
この設問のポイントは、リービ氏が問題として直面していた「民族性」です。
設問のヒントになるのが続く第4段落です。引用してみましょう。
〔引用文〕
あの図式がはじめて変ったのは、もちろん、ぼくのように西洋出身者が日本語で書きはじめたからではない。その前に、日本の「内部」に在しながら、「日本人」という民族の特性を共有せずに日本語のもう一つ、苛酷な「美しさ」をかち取った人たちがいたからだ。(強調は引用者)
この下線部は、第5段落に登場する李良枝(イ・ヤンジ)の紹介文になっています。そして、李良枝が、「『日本人』という民族の特性を共有せずに日本語のもう一つ、苛酷な『美しさ』をかち取った」とすれば、裏返せば、「日本人という民族の特性を共有していれば日本語のひとつの美しさが獲得される」というふうに読めるのではないでしょうか。
第4段落は、李良枝の獲得した「日本語のもう一つ、苛酷な「美しさ」に対する「ひとつの美しさ」は、民族の特性を共有しているということを前提にして書かれています。これは当時の「一般論」に対する李良枝の奮闘に言及したものです。
ここから、第3段落の「おおよその日本人がロにしていた『美しい日本語』」(すなわち「一般論」)とは「民族特性を共有している者同士であれば美しさが共有できる、そういう日本語だ」となります。リービ氏は、こうした日本人の考え方を前提に、第4段落で、そうじゃない、共有していれば獲得できる美しさだけではないと書いたのでした。
②生まれた時から日本語を共有していないという問題
生まれたときから日本語を共有する環境の中にいない者は意味を客観的に正確にとって読むことまではできても、日本語を使いこなす者には絶対になれないと思われていた、ということ。
★設問(三)の解答例
生まれた時から日本語を共有していなければ、読んで意味を正確に把握することまではできても、感知したことを自在に書くことはできないということ。
この設問のポイントは、「生まれた時から日本語を共有しているかどうか」という問題です。「民族」という問題とはまた別の問題です。
この二点においてリービ氏は日本語から疎外されていたのです。こうしたふたつの問題にリービ氏は向き合わなければなりませんでした。では、この問題はどこに向かうのでしょうか。第4段落です。もう一度引用してみます。
〔引用文〕
あの図式がはじめて変ったのは、もちろん、ぼくのように西洋出身者が日本語で書きはじめたからではない。その前に、日本の「内部」に在しながら、「日本人」という民族の特性を共有せずに日本語のもう一つ、苛酷な「美しさ」をかち取った人たちがいたからだ。
そんなとき、リービ氏に、作家李良枝(イ・ヤンジ)との出会いが訪れます。「日本語の作家としてデビューしてまもない頃に、在日韓国人作家の李良枝から電話があった」。李良枝は在日韓国人として、生まれた時から日本語環境の中で育ち、自民族の言語である韓国語に違和感を覚えるほど日本語の感性を身に着けているという人でした。「(前略)日本語の感性を運命のように持ったために、「母国」の言語でありながら「母国語」にはならなかった韓国語について、ぼくがたずねてみた。動詞の感覚は違う、という話しになった」。李良枝はその一月後に急死する。リービ氏の中に在日「韓国人」、李良枝の「日本語の感性そのものの声」が残る。
(※ここでリービ氏は、「『母国』の言語でありながら『母国語』にはならなかった韓国語」、と書いています。
前述のような、「母語」と「母国語」の意味の整理からすると、李氏にとって「母語」は日本語です。
彼女の「母国語」は、「母国語=国籍のある国の言葉」だとすれば、韓国語になります。
この解釈だと、リービ氏の文章は、「『母国』の言語でありながら『母語』にはならなかった韓国語」と書き直されることになります。
言い換えると、リービ氏のいう「母国語」は、通例いわれる「母語」の意味で使われています。
また、「母国語=生まれた国の言葉」だとすれば李氏にとっての母国語は、日本語になります。
この解釈だと、リービ氏の文章はそのままですが、「韓国に生まれなかった」という事実が強調される文章になります。
「母語=母国語」だとすれば、李氏にとっての母国語は、日本語になります。
この解釈だと、リービ氏の文章はそのままになります。)
日本人という民族でなくても、日本語の感性そのものを身に着けていた李良枝。この出会いにおいて、リービ氏は、ある言語を自らのものであるか否かということに、どの民族に属しているかなど関わりないということを知ります。先述の第一の問題、「日本人として生まれたから自らの民族の特性として日本語を共有している、というような思いこみ」が許されるか否かなどということは、言いかえれば、リービ氏が日本人という民族に属しているかいないかなどということはもはや問題にはならないことを李良枝の存在によって教えられたのでした。
ここに①の問題、すなわち①日本人という民族ではないという問題が解決されたのでした。
★設問(四)解答例
日本人という民族でなくても、生まれた時から日本語を共有していれば身につく、自民族の言葉に違和感をもつほどの自然な日本語の感覚。
この設問のポイントは、リービ氏の問題①への答えであることです。「日本語にかかわるのに民族なんて関係ない」ということが核心です。
4.作家の無意識が走り始めるとき ふたつめの問題(生まれ育ちと日本語)の行方その1
しかし、李良枝は日本で生まれ、日本語の中で育っていました。この点では李良枝とリービ氏の立場は決定的に異なります。ここに②の問題、リービ氏が生まれた時から日本語を共有していないという問題が残っているのです 。
リービ氏は、「日本と西洋だけでは、日本語で世界を感知して日本語で世界を書いたことにはならない、という事実にも、おくればせながらあの頃気づきはじめた」と、中国大陸に渡ります。
なぜ、「日本と西洋だけでは、日本語で世界を感知して日本語で世界を書いたことにはならない」のでしょうか。なぜリービ氏に中国が必要だったのでしょうか。この問いにこそ、本問の最大のカギがあります。
リービ氏にとって「中国大陸」の意味とはどういうものでしょうか。本文のその後の言葉からうかがえることは、リービ氏がかつて、おそらく年少期に(年少期ということは後述のように大きな意味を持ちます)、中国大陸の状況の影響を受けて、その生活が激変したということです。ここでリービ氏は自身のテーマを「日本語で世界を感知して日本語で世界を書」くこととしています。繰り返せば、その時リービ氏に足りなかったものは、李良枝にはあった「日本での生まれ育ち」という、自分にはもうどうすることもできないものでした。
しかし、「生まれた時から日本語を共有している」ということもまた、日本語で世界を感知するために絶対的に必要なことなのでしょうか。たしかに必要なことであるとしても、「それに代わるような何らかの体験」もありうるのではないでしょうか。こうした体験と、リービ氏は中国大陸に渡ったことで邂逅することになるのです。問題文は佳境に入ってゆきます。第10段落です。
〔引用文〕
日本から、中国大陸に渡り、はじめて天安門広場を歩いたとき、あまりにも巨大な「公」の場所の中で、逆に私小説的な語りへと想像力が走ってしまった。アメリカとは異った形で自らの言語の「普遍性」を信じてやまない多民族的大陸の都市の中を、歩けば歩くほど、一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国の言語でその実感をつづりたくなった。まずは、血も流れた大きな敷石の踏みごたえと、そこに隣接した路地の、粘土とレンガを固めた塀と壁の質感を、どうすれば日本語で書けるか、という描写の意欲を覚えた。そのうちに、アメリカ大陸と中国大陸の二つのことばを媒体とした感情が記憶の中で響く一人の主人公の物語を、想像するようになった。
何かが走り始めたような文体になっています。走り始め、そして加速していく。この引用箇所でまず私たちに迫ってくるのは、各文の文末です。「想像力が走ってしまった」、「その実感をつづりたくなった」、「描写の意欲を覚えた」、「想像するようになった」。これらの表現は意識的、意志的なものを表すものではありません。ではなにを表現しているのでしょうか。それは、自身の中におのずとわき上がってくるものがあったということを表現しています。意識しなくても、意識の外から自分が表現するべきものがやって来たということです。ちょうど東大現代文の1996年度第五問の三善晃氏、2020年度第四問の谷川俊太郎氏のように。そして、日本語というものにあらためておのずと心が動いたのです。
日本語を母語とする人たちは、無意識的に様々な日本語表現に導かれるでしょう。これと同じことがリービ氏にも起こったのです!
李良枝氏について書いていたとき、文体は落ち着きと静謐さのなかにありました。それは、自身が日本語の中に徐々に浸っていくたしかな実感が生まれてくることの静かな感動を表していたのでしょう。いま、文体は走り始めたような、加速していく疾走感にあふれたものになっています。この文体は何を表現しているのか、リービ氏の無意識が走り始めたということです。李良枝の存在によって日本語の使い手になるために民族などは関係ないことを知った、そして今、「生まれた時からこのことばを共有しない者」であっても、無意識のうちに日本語がほとばしり始めたのです。
★リービ氏の心の動き 「私小説的語り」へ、そして、「日本語へ」 リービ氏は中国大陸の何に触発されたのか
ここには、ひとつの「触発された」状態があります。リービ氏は中国大陸に渡り、天安門広場、中国語、そして多民族的大陸の都市に触発された、その結果、無意識が走り始め、「私小説的な語り」、「一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国言語」(日本語)へと心が動き、中国大陸のあり様と新たな物語(私小説的な語り)を描く構想と意欲とがわいてきたのでした。
これらの事柄が持つ意味をひとつひとつ考えてみましょう。
では、中国大陸の何に触発されたのでしょうか。ここでの因果関係は対比的な構造で書かれています。①天安門広場のあまりにも巨大な「公」に対しては、「逆に私小説的な語りへと想像力が走ってしまった」。そして、②「アメリカとは異った形で自らの言語の「普遍性」を信じてやまない多民族的大陸の都市」に対しては、「一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国の言語でその実感をつづりたくなった」。
①巨大な公VS私的なもの、②その普遍性を信じられた中国語あるいは都市の多民族性VS一民族の特性と強く結合しているといわれる日本語。「自らの言語の『普遍性』を信じてやまない多民族的大陸の都市」というくだりにある中国語の「普遍性」とは、中国語に多民族が関わり、使用しているという状態をいうものと思われます。「普遍性」とは誇張された表現ですが、この言葉が中国大陸のもつ迫力をさらに際立たせて感じさせるものとなっています。
では、なぜ触発によるこうした心の動きは起こったのでしょうか。次のような理由が考えられます。
まず、一般論としては、あまりにも公が主張されるようなとき、私性、私的なことや自己に思いが行き、また多民族で構成される多くの人々、広大な領域で多民族によって使用される言語に対すれば、一民族と密接な関係をもつマイナー言語に思いが行くという可能性はありうると言えそうです。
ちょうど小中学校で全体の規律を守る行動を指示されたようなときに、自分という個的存在が否定されたような違和感を持って、「自己」という存在に注意が向くようなことがあるように。引用文を読めばリービ氏も巨大な公、多民族のいる都市、多民族の関わる言語に接し、触発され、「逆に」私性(私小説的語り)や一民族性の強いマイナー言語におのずと心が動いたものと考えられます。
文章を読む中で、こうした公私の対比構造をたしかに読み取るためのヒントが冒頭で触れた2001年度第四問で言われていた「孤独」です。「文学における孤独」とは、少なくともある時点でのある人にとって、「そうであるほかない」と、自身にとっても他人にとっても思えるようなありようのことをいうのではないかと考えてみます。誰にも代わってもらえず、共感さえないかもしれない「そうであるほかない」ということを引き受け、なにかに立ち向かうことあるいは退くこと、あるいはその他の選択を強いられるような生きることのあり様をいうのではないかと考えてみます。そこにはその人だけの「問題」があります。
リービ氏がかつて何らかのかかわりをもったと思われる中国で、天安門広場の巨大な公という印象と多民族が関わっている中国語、多民族都市に触れたとき、彼の心は自己(私小説的語り)と日本語(一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国の言語)へと走りました。大きな公という印象やなんらかの普遍性の主張などに対して、「文学者」であれば一挙に「孤独」というものに心が動く瞬間があるはずです。それが孤独というものの〈像〉です。この意味で、リービ氏の心の動きは文学者の心の動きそのものと言っていいのではないでしょうか。その時、この触発の過程で、彼は日本語に魅かれる米国人としての自己が強いられていた「孤独」と真に邂逅したといえるのではないでしょうか。
おそらく孤独には様々な度合いがあります。いまリービ氏はある閾値を超えた孤独に至ったのです。彼がそうであるほかないこと、それはカリフォルニア州生まれの米国人として日本語で表現していくことです。この孤独のある閾値が超えられたのです。
李良枝との出会いは彼にとって日本語にかかわっていくうえで希望でもありましたが、しかし、日本で生まれ育っていた李氏と自身との決定的な差異はありました。そしてひとりで歩いていた彼の無意識が、中国大陸での触発によって走り始めたのです。彼は意識的な姿勢をとることによって新たに日本語で書くことの構想と意欲とをもったわけではありません。日本の中で、日本語を母語としない外国人として辛酸をなめながら、そしてあれこれと日本語について意識しながら歩き続けてきた彼に訪れたのは、無意識的にわき上がってくる、日本語で書くという意欲と構想なのです。彼はもはや意識で創造するのではない。第一作を書いていた時には日本語で書く理由をまだ求めていた、あるいはむしろ日本語で書く理由というものをどうしても考えてしまっていました。心の前景において、すなわち意識においての逡巡があったのです。しかし、いまはただ日本語がおのずと自分の中にあふれてきそうな地点に辿りついたのです。
この「中国大陸による触発」については、のちにもう一度触れます。
5.二つのことを書く意欲と構想~「私小説的語り」と「中国大陸の感触」とを書く意欲と構想~ふたつめの問題(生まれ育ちと日本語)の行方その2
第10段落では、リービ氏には二つのことを書く意欲と構想がわき上がっています。一つは、中国大陸のあり様で、これは続く第11段落で、「同時代の場所としての中国大陸の感触」とも言われています。もう一つが、「私小説的語り」です。このことは「そのうちに、アメリカ大陸と中国大陸の二つのことばを媒体とした感情が記憶の中で響く一人の主人公の物語を、想像するようになった」とも書かれます。ここでは、後者の「私小説的語り」を書くことの本文における意味から検討してみます。
★「私小説的語り」を書くことの本文における意味 自分の過去を日本語で生き直すこと
今引用したばかりですが、第10段落でリービ氏は、「そのうちに、アメリカ大陸と中国大陸の二つのことばを媒体とした感情が記憶の中で響く一人の主人公の物語を、想像するようになった」と書いていました。その後に、次のように「物語の構想」についてあらためて書かれます。
〔引用文〕
私小説はおろか小説そのものからもっとも遠く離れた、すぐれて「公」の場所、十億単位の人を巻きこんだ歴史の場所で、その歴史に接触して崩壊した家族の記憶が頭の中で響いている。そうした一人の歩行者のストーリーを、どのように維持して、書けるのか。日本から、北京に渡り、その中心を占める巨大な空間を歩きながらそう考えたとき、母国語の英語はもはや、そのストーリーの中の記憶の一部と化していた。
第10段落の引用文に「私小説的な語り」と言われていたことから、ここで構想されているストーリー(「一人の歩行者のストーリー」)は、リービ氏自身のものでしょう。中国ではない場所で暮らしていたリービ氏(しかし、問題文からはリービ氏がおそらく年少時から中国語にも関わっていたことがうかがわれます。第11段落で中国語の文字の変化についての感慨が述べられています)の家族は、中国の歴史的な経緯になんらかの影響を受けて崩壊した。問題文のニュアンスからは、彼が主人としてある家族というよりも年少時の家族という印象ですが、確かなことは言えません。
中国の巨大な「公」、多くの「私的なもの」を押しつぶしてきたであろう「公」。リービ氏は、そのいわば「被害者」として、私的世界の崩壊を経験した当事者です。そうであるならば、中国の巨大な「公」が一挙ににリービ氏の中に「私的なもの」を喚起することは不思議なことではないでしょう。こうしたことも先述来のリービ氏の心の動き(私小説的語り、マイナー言語としての日本語への心の動き)の理由として考えられます。
いまリービ氏の中に、そうした崩壊の体験をもとにした「私小説的語り」を日本語で書く意欲と構想とが、天安門広場という巨大な「公」に触発されておのずとあふれだそうとしています。ここでひとつの仮定に立ってみようと思います。それは中国大陸の出来事の影響による「家族の崩壊」がリービ氏の年少期のことだという仮定です。この仮定に立つと、以下のように、なぜ、「日本と西洋だけでは、日本語で世界を感知して日本語で世界を書いたことにはなら」ず、中国という存在が必要であるのかがわかるからです。「年少期」という仮定はいわば「育ちの過程」を意味します。この仮定から以下のように考えることができるのではないでしょうか。
「アメリカ大陸と中国大陸の二つのことばを媒体とした感情が記憶の中で響く一人の主人公の物語」(強調は引用者)を書くことがリービ氏にとってどういう意味を担ってくるのでしょうか。
その主人公、すなわちリービ氏は、英語と中国語の中に育ちました。生まれてすぐの時の言語はおそらく英語でしょう。その自らの育ちの過程を今自らの中に無意識のうちにあふれだしてくる日本語で辿りなおしていく。自らの育ちの過程を日本語で感知しなおす。英語と中国語で感知していた体験あらためて日本語で感じ直し、日本語で書く。育つ中での数々の体験を直接に日本語で感じるように書く。日本語で書くということを意識しなくてもおのずと育ちの過程が日本語になっていく。あたかも日本語の中で、はじめから日本で生まれて育ったかのように。こうしたことが「私小説的な語り」を新たにすることのもつ意味でしょう。
「アメリカ大陸と中国大陸の二つのことばを媒体とした感情が記憶の中で響く一人の主人公の物語」。この「二つのことば」が自ずと日本語に置き換わっていく。過去の感情が日本語で感知しなおされていく。過去の人生がトータルに日本語になっていく。この「過去の人生の全体性」の完成ために中国大陸が必要だったのです。
「アメリカ大陸と中国大陸の二つのことばを媒体とした感情」の記憶が、「日本語を媒体とした感情の記憶」へと自ずと置き換わっていくのです。
そうして、「母国語の英語はもはや、そのストーリーの中の記憶の一部と化していた」。母国語(母語)の英語はいわば日本語体験のなかの一言語になっているのです。リービ氏は「生まれた時」からのすべてを日本語でたどり直したのではありません。そのようなことはできないことです。
しかしながら、リービ氏が英語と中国語のなかでの過去の体験を自分の中にあふれてくる日本語で書くことは、生まれた時から日本語を共有している日本人が日本で生育した過去全体を日本語で感じ、生きてきたことと等価であると言えるのではないでしょうか。言いかえると、まさに「生まれた時から日本語を共有していること」に匹敵するだけの日本語体験をしたと言えるのではないでしょうか。ここに②の問題、生まれた時から日本語を共有していないという問題が解かれたのです。
それは、無意識にわき上がってくる日本語という存在によってもたらされたものでした。日本語というものを意識しなくても、あたかも「日本で生まれ育った日本人」のように、日本語が無意識のうちに湧きだしてくるのです。リービ氏にとっての第二の問題であった「生まれた時からこのことばを共有しない者は、いくら努力しても一生「外」から眺めて、永久の「読み手」でありつづけることが運命づけられていた」ことが乗り越えられ、自らの中からほとばしってくる日本語による書き手となったのです。
今、私たちは、リービ氏が構想し始めた私小説的語りの舞台が「リービ氏の年少期」に遡る(家族の崩壊)ということを仮定して話を進めてきました。そして今、この仮定によって、リービ氏にとって新たに私小説的な語りを書くことがもたらす意味に辿りついたのです。この仮定を捨てて、家族の崩壊が年少期のことかどうかが私たちに分からなくても、あるいは年少期にまで遡らなくとも、過去の体験を直接に日本語そのもので感じ直していく過程こそがリービ氏の日本語をあたかも母語のように縦横無尽なものにしたのだということをいまやたしかに感じられることと思います。
私は先に次のように書きました。
なぜ、「日本と西洋だけでは、日本語で世界を感知して日本語で世界を書いたことにはならない」のでしょうか。なぜリービ氏に中国は必要だったのでしょうか。この問いにこそ、本問の最大のカギがあります。
この問いへの答えは上述のとおりです。繰り返せば、日本と西洋に加えて中国が必要だったのは、(おそらく)年少期に中国大陸での出来事に、中国とは別の場所で大きな影響を受けた、そのことを辿り直す、しかも日本語で辿り直すためです。これまで英語と中国語で感知していた世界、そして「人生」を、あらためて日本語で感じ直すためです。自らの育ちの過程を、「これまでの人生そのもの」を日本語で感じ直すこと。「生まれた時から日本語を共有」していなくても、育ちの過程での出来事を、日本語で感知し自在に表現できるということは、「生まれた時から日本語を共有していること」に匹敵するという意味をもつのでした。
在日韓国人作家、李良枝が日本で生まれ育ったがゆえに運命のようにもつことができた「日本語の感性そのものの声」を、リービ氏はあたかも日本で生まれ、日本語の中で育ったかのように自らの過去を日本語でおのずと表現できるまでに、いつのまにか身につけることができていました。その決定的な契機になったのは、まず中国大陸で得た巨大な公という印象、多民族に関わる中国語という大きな言語や多民族都市から得られた印象による触発でした。この触発によって、おのずと生まれてきたのは、巨大さとは逆の、「私」と「一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国の言語」といういわば特異なものへの心の動きでした。
★「中国大陸の感触」を書くということの意味~本問において「中国大陸」が持つもうひとつの意味
リービ氏は、こうして「日本語の感性そのもの」に至りついたのです。そこで、問題文において、「中国大陸」が持つさらにもうひとつの意味が見えてきます。
第10段落の該当する箇所をもう一度引用してみます。
〔引用文〕
アメリカとは異った形で自らの言語の「普遍性」を信じてやまない多民族的大陸の都市の中を、歩けば歩くほど、一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国の言語でその実感をつづりたくなった。まずは、血も流れた大きな敷石の踏みごたえと、そこに隣接した路地の、粘土とレンガを固めた塀と壁の質感を、どうすれば日本語で書けるか、という描写の意欲を覚えた。
先に、多民族が関わる中国語という印象に触発されて、逆に
「一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国の言語」へとリービ氏の心が動いたと書きました。メジャー性を前にして、図らずもマイナーな存在の意味を感じ取ったのでした。
しかし、リービ氏が日本語という民族特性が強いとされる「島国言語」へと心が動いた理由はもう一つ考えられそうです。それは、あまりにも日本という島国とは異質なものを感じさせる中国大陸を目の当たりにして、島国で生まれた日本語という言語で大陸的なものを描けるのだろうかという、表現衝動です。
リービ氏は、中国大陸において、「まずは、血も流れた大きな敷石の踏みごたえと、そこに隣接した路地の、粘土とレンガを固めた塀と壁の質感を、どうすれば日本語で書けるか、という描写の意欲を覚えた」と書きます。日本との異質性をもって眼前にある光景もまた、島国言語へと心を動かしたものなのではないでしょうか。それは文学者的な衝動です。
繰り返すと、中国大陸の感触を日本語で書く、言いかえれば、島国の言語で、島国とは異質な広大な大陸とその中の路地などのありようを書くなどの難しい行為への意欲と構想とがリービ氏の中におのずとわいて来ています。そして、リービ氏はこうした中国大陸のありようをも日本語で自然に書けてしまうようになるのです。言いかえると、「中国大陸」はリービ氏がいかに日本語の優れた使い手になったのか、日本語の書き手としての表現力の力量を表す指標の役割を担っています。
いまリービ氏は、「古代のロマンではなく同時代の場所としての中国大陸の感触を日本語の小説で体現するという試みは、半世紀前に、上海に渡っていた武田泰淳にも、また満州に渡っていた安部公房にもあった」(第11段落)という箇所に言う「試み」を遂げるまでの「書き手」になったのです。
リービ氏は、民族がちがっていても、生まれ育ちが日本でなく、その過程に日本語がなかったとしても、「世界がすべて今の、日本語に混じる世界となった」と書く地点にまで至りついたのです。
6.エピローグ
最後のふたつの段落を読んでみましょう。
〔引用文〕
北京から東京にもどった。新宿の部屋にもどった。アメリカ大陸を離れてから、6年が経っていた。新宿の部屋の中で、二つの大陸のことばで聞いた声を、次々と思いだした。「天安門」という小説を書きはじめた。
二つの大陸の声を甦らせようとしているうちに、外から眺めていた「Japanese literature」すら記憶に変り、オ世界がすべて今の、日本語に混じる世界となった。
東大の設問(五)は、下線部オについて、「どういうことか、文中に述べられている筆者の体験に即し、100字以上120字以内で述べよ」というものです。難しいのは「筆者の体験に即し」という部分です。この部分こそが東大現代文の「無意識」という思想そのものにかかわるからです。
「世界がすべて今の、日本語に混じる世界となった」というリービ氏の至りついた地点を描く美しい一文は、問題文中の言葉を使えば、まさにリービ氏が「日本語で世界を感知して日本語で世界を書」けるようになったことをいうものでしょう。言いかえれば、世界のあらゆる出来事や体験におのずと日本語で反応して、日本語で表現することができるようになったという趣旨のことを書けば間違いないと思います。しかしながら「体験に即し」ということで一体なにをどう書けばよいのか。東大の現代文の歴史の中でももっとも難しい問題のひとつであろうと思います。
若い頃から日本語で書き始めたこと、李良枝との出会い、中国大陸での体験を、順を追って書けばよいのでしょうか。しかし、書くべきことは体験を順序だててすべて書くことではなく、体験のもつ「意味」でしょう。その意味とは、「無意識的」に日本語による創造の意欲と構想とがわき上がってきたということを核とするものでした。しかしながらこのことを100~120字でまとめるのは、まして実際の入試の現場で書くことは至難です。解答例をひとつ書いてみましょう。
設問(五)解答例
天安門広場の公や多民族が関わる中国語の印象から、逆に自己や単一民族の特性とされてきた日本語へと心が動き、過去の体験や島国と異質な大陸を描く意欲と構想とが自ずとわいて書く中で、あらゆることに自然に日本語で反応して書けるようになったということ。(120字)
この解答例には、残念ながら、たとえばリービ氏が、英語と中国語での過去の体験を自分の中にあふれてくる日本語で書くことが、「日本人がその過去全体を日本語で生きてきたことと等価である」というニュアンスが強く表れているとは言えません。「無意識的創造」ということは「自ずと」という短い表現に頼っています。なにをどこまで盛り込んで書くのかということはやはり至難というほかないと思います。
強調点を変えて、もう一つ解答例を書いてみます。
設問(五)解答例その2
中国大陸で私的な事柄や日本語へと心が動き、過去の英語と中国語での体験を日本語で自ずと感じ直し、また、島国と異質な中国大陸のあり様を日本語で書く意欲が自ずとわく中で書くことで、あらゆることに自然に日本語で反応して書けるようになったということ。(120字)
本文で述べたことを十分に盛り込むことはやはり難しいです。本問を120字以内にまとめるということについてはまだまだ今後の課題としておきます。
7.解答例を並べて見える世界
設問(一)
日本語は未だ距離を感じる大きな関心対象としてあり、実際に日本語での経験をしたことの重みと、その際の日本語の生きたニュアンスをそのまま書きたかったから。
設問(二)
日本人という民族の特性の言語面での現れとして、日本人のみが感じ、共有しうると考えられる音の響きや意味の広がりなどを持つ言葉。
設問(三)
生まれた時から日本語を共有していなければ、読んで意味を正確に把握することまではできても、感知したことを自在に書くことはできないということ。
設問(四)
日本人という民族でなくても、生まれた時から日本語を共有していれば身につく、自民族の言葉に違和感をもつほどの自然な日本語の感覚。
設問(五)
天安門広場の公や多民族が関わる中国語の印象から、逆に自己や単一民族の特性とされてきた日本語へと心が動き、過去の体験や島国と異質な大陸を描く意欲と構想とが自ずとわいて書く中で、あらゆることに自然に日本語で反応して書けるようになったということ。
こうして各設問と解答例を並べてみると、あらためて文章の構成がよくわかります。
設問(一)がリービ氏の出発点で、設問(五)が到達点です。設問(二)と設問(三)とがリービ氏が向き合った問題となります。設問(二)における問題提起への答えが、設問(四)。そして、設問(三)における問題提起への答えが、設問(五)というように、問題文の文章構成と見事に対応した傍線部と設問となっており、まさしく、「文章とはこうやって読むものだ」というお手本になっています。
8.本問と題材の異なる類似問題 2016年度第一問
2016年第一問(出典は内田樹「反知性主義者たちの肖像」、内田樹編『日本の反知性主義』所収、晶文社、2015年)に次のようなくだりがあります。
〔引用文〕
私は、知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象(注:強調は原文、実際には傍点)だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。
ある人の話を聴いているうちに、ずっと忘れていた昔のできごとをふと思い出したり(注:強調は引用者、以下同様)、しばらく音信のなかった人に手紙を書きたくなったり、凝った料理が作りたくなったり、家の掃除がしたくなったり、たまっていたアイロンかけをしたくなったりしたら、それは知性が活性化したことの具体的な徴候である。私はそう考えている。「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たちに及ぼす力のことを、知性と呼びたいと私は思う。
この引用文から、リービ英雄氏の2001年第一問、第10段落における、「想像力が走ってしまった」、「その実感をつづりたくなった」、などのたたみかけるような表現を思い出さないでしょうか。内田氏の文章でも、「無意識が走り始める」、そのありようが書かれているのです。東大現代文は様々な題材で「無意識の思想」を展開していきます。次回は、過去の問題の集大成ともいえる2022年度第4問を見ていきます。
追記
本稿のはじめに、本問は少なくとも過去40年間では東大国語第一問としては唯一のエッセイとなっていることについて、その理由は設問(五)にある旨を書きました。本稿は連載の一回分の規定文字容量を超えてしまいましたので、その詳細についてはまた別稿にて書きたいと思います。
注
(1)2004年度第四問では次のような特定の文学者批判を含む文章が出題されました。受験生が何よりも踏まえるべきは、けっして前衛的な文学理論ではない、というメッセージのようにも思えます。「主体の意識を考えた時、写真は不便なものである。自分の内部に思想があってそれを写真に表現するという俗流の考え方は、いつも写真によって裏切られるだろう。だが一方言葉で、たとえばアラン・ロブ=グリエやミシェル・ビュトールらがいかに外的な世界を描写しようと、それは時間の中を動いている意識にすぎないのに比して、写真は無媒介に世界を目の前に現わすわけである」(強調は引用者。多木浩二『写真論集成』、岩波現代文庫、2003年)。
(2)芦田宏直『シラバス論 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』晶文社、2019年、344頁。高橋教授とのエピソードについて、続けて次のように述べられています。「高橋先生はその文章の翻訳を出版社から頼まれていたんですが、一年間ゼミでその検討をやったけども議論は結局決着つかない。僕の訳の方が絶対正しいと思ったんですけども、もう先生は最後は意地になって「絶対に俺の方が正しい」と言うんです。でも出版されてみたら、僕らが言った訳文になっていました(笑)」。