安芸守 平清盛 | 辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

創作人形作家辻村寿三郎の作品を皆様にご紹介いたします。

本日ご紹介の作品は4月23日から目黒雅叙園で展示いたします。
お近くの皆様是非お出かけください。

平清盛
ジュサブロー館の創作日記
2010年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM

写真をクリックすると大きいサイズで見ることが出来ます。
細かいディテールをご覧ください。

海賊追討などを積極的に行ってきた平正盛・忠盛のころから
平氏は、瀬戸内海と深い関係を持っていた。

やがて忠盛から家督を継ぎ平氏の棟梁になった清盛はさらにその関係を深めてゆく。

1146年の2月に清盛は正四位下に昇進し、その翌日に安芸守任官を命じられた。

その後約10年間安芸守をつとめ、その間に宮島との深い関わりが生まれていった。

平清盛
ジュサブロー館の創作日記
2010年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM

1153年に父の忠盛が亡くなり、清盛は父が携わっていた高野山大塔の再建工事を引き継いだ、
その落慶法要が3年後の1156年(保元6年)に執り行われた。

この時、「平家物語」によると、清盛の夢枕に不思議な老僧が現れ、
「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」とのお告げを聞いたという。

その老僧の言葉は、その後勃発した
保元の乱・平治の乱の間も清盛の脳裏から離れなかった。

やがて正三位に列せられた清盛は老僧の言葉を実現すべく
1160年、初めて厳島神社に参詣することになる。

浄海入道清盛
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM

正盛と忠盛が推し進めていた日宋貿易を拡大しようとしていた清盛は
ここ宮島を中心基地にすべく航路整備のために大輪田泊を整え、
各地の港を整備する等、着々と行動を開始した。

そのため正盛と忠盛が海賊追討を行っていたときに作り上げた
平家の瀬戸内海のネットワークを最大限に利用した。

1158年に太宰大弐に任ぜられた清盛は、
やがて宋商船を太宰府から瀬戸内海へと導き宮島へ案内した。

瀬戸内へ宋船を招聘するような清盛の行動は当時の貴族達から驚異の目で見られた。

浄海入道清盛
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM

平家一門や皇族・貴族の厳島参詣は年々頻繁になり、
このための海上ルートが日宋貿易へのルートとなっていった。

厳島神社へ貴人の参詣が頻繁になるにつれて厳島神社内の組織の規模も拡大していった。

1167年清盛は太政大臣に昇進すると再び厳島神社を詣でて平家納経最後の経巻・般若心経を納めた。

平氏一門の参詣が頻繁になる中で、厳島神社は清盛の援助を得て神社の修造を開始。

神殿以外は板葺きであった屋根はひわだ葺きに改められ、舎殿の数も増やされ、
清盛の強力なバックアップのもとにほぼ現在の規模に匹敵する程拡大された。

この時修造した殿舎は本宮37棟、外宮19棟との記録が残る。

こうして海上に浮かぶ豪壮・華麗な寝殿造の社殿は平家一門の帰依を受け、安芸国の一宮となった。

清盛が残した大きな文化遺産は1996年にユネスコの世界遺産に登録された。