10月7日より姫路文学館〈江〉の娘 千姫 展にて
一部作品の展示が行われます。
初日には寿三郎も伺いますので是非お越し下さい。
〈江〉の娘 千姫 展 平成23年10月7日(金)~11月27日(日)
徳川秀忠とおごうの娘、豊臣秀頼の正室。
秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかった。
大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
秀頼と側室の間の娘奈阿姫が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助けた。
後に出家して天樹院となる。
千姫は祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。
千姫と姫路城
元和2年(1616)、4月に家康が没後、9月に桑名藩主本多忠政の嫡男忠刻の元へ、千姫は嫁ぐ。
千姫は穏和な性格で、秀頼との夫婦仲も良かったが、忠刻とも仲睦まじい生活を送っている。
元和3年、幕府は姫路城の新城主池田光政を幼少を理由に鳥取藩に移封し、
姫路城の播磨52万石を細分化して、播磨姫路15万石を本多忠政(桑名10万石)に与え、
忠刻には千姫の化粧料として播磨10万石を与えた。
忠刻は姫路城部屋住みの身なので、忠刻・千姫の新居として城内に武蔵野御殿が設けられ、
西の丸を整備して化粧櫓が建てられた。
忠刻と千姫との間には元和4年(1618)に長女勝姫、元和5年(1619)に長男幸千代が生まれた。
千姫は領民から「播磨姫君」と称され、敬愛されていた。
たずぬれど 風に問うても 泣くばかり
史実に残る女たちのどれもが、運が強くても薄くても、
その末路はもの哀しいものだ。
華が大きければ大きいほど、哀れもひとしおである。
何が幸いか不幸か、過ぎてみれば夢のあとである。
はなならば、咲き乱れるのである。
よくぞ咲いたもの、今の世にもその花の香りをかぐがごとくに、
その夢のあとのはなびらがいとおしい。