平重盛と基盛 | 辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

創作人形作家辻村寿三郎の作品を皆様にご紹介いたします。

重盛と基盛
ジュサブロー館の創作日記
2008年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM
写真をクリックすると大きいサイズで見ることが出来ます。
細かいディテールをご覧ください。


ジュサブロー館の創作日記
撮影 Canon EOS 7D
EF100mm F2.8 マクロ USM


この二人の兄弟、智の重盛と武の基盛、このふたりが
隆盛を極める平家を支えていた。


高階基章娘と重盛・基盛
ジュサブロー館の創作日記
2008年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF 50mm F1.4 USM

重盛
ジュサブロー館の創作日記
2008年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF100mm F2.8 マクロ USM

平 重盛  清盛の嫡男。
1138年~1179年。

保元の乱、平治の乱で若き武将として清盛を助け、相次いで戦功を上げ、
父清盛の立身とともに出世し、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。

非常に頭脳明晰で平家一門の中でも清盛の後継者として期待する者が多かった。

嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは
母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、
鹿ヶ谷事件における成親の失脚後は平家一門の中で孤立してしまう。
政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。

清盛と後白河法皇の対立では有効な対策をとることができないまま、父に先立ち病没した。

享年42歳

鹿ケ谷事件の際、後白河法皇の幽閉を決定した清盛を
諌め止めさせた話は有名で、
清盛を抑えることができる唯一の人物だったことで知られる。

清盛の後を次ぐ平の棟梁として嘱望されていたが、
重盛の死後、平清盛の迷走が始まっていった。

基盛
ジュサブロー館の創作日記
2008年制作
撮影 Canon EOS 40D
EF100mm F2.8 マクロ USM

平 基盛 清盛の次男。
1139年~1162年。
保元の乱に際しては、父とともに後白河天皇方に参加。
18歳ながら宇治路の警護に当たり、東山法性寺の辺りで崇徳上皇方に参陣途上の
源親治を捕らえるという大功を立てた。
これを賞され戦後の9月には蔵人に任じられ、
従五位下に叙勲された。その後は大和、淡路の国司にも任じられている。
続く平治の乱においては、当初父清盛や異母弟宗盛らとともに紀伊国の
熊野詣において藤原信頼らの挙兵の報に接するも、
在地豪族らの協力により無事帰京を果たして反乱軍を撃破。

この政変を経て平家一門の政権基盤が確立されると、
基盛も一門の有力者の一人として左衛門佐、
遠江守、越前守を歴任した。

1162年宇治川を騎馬で渡河しようとした際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死した、
と「源平盛衰記」には記されている。

享年24歳


ジュサブロー館の創作日記
撮影 Canon EOS 7D
EF100mm F2.8 マクロ USM