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昨日の午前中に、我が家に何人も集まってくださり、共に礼拝した時に即興で話させてもらった奨励です。
ボイスレコーダーに録音した物のテープ起こしを、なんと!即日の夜に仕上げてくれました。
30分程の話を文字にする作業が、五時間ぐらいかかったようです。感謝します。
いつもこのように苦労してくれているので、せっかくなので、いつも、ここにお分ちさせていただいてますぅ。

61回目の家の礼拝の奨励をいたします。今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書11章の20節から26節、タイトルは、「疑わないで信じる信仰が要る」としました。ここは、イエスさまが、エルサレムに入場された、翌々日のことを話しています。で、その日の朝早く、弟子たちと一緒に、イエスさまが道を通っていました。そうすると、いちじくの木があるのを発見しました。そしてイエスさまが、このいちじくが、実がなっているかどうかを、前日、確認したのです。前のところをさかのぼると、12節に、

翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。(マルコ11:12)

とあります。イエスさまは神の子でしたが、人間としてお生まれになられたので、眠くなったり、お腹が空いたり、するんですね。そして、そのとき、空腹でした。ですから、いちじくの木があったのを見て、そのフルーツを食べたいと思われました。そして、続きますが、そのいちじくの木を遠くからご覧になって、何か実がなってないかな、と期待して近寄られたけど、葉っぱ以外は何もなかった。ということです。そして、それはどうしてかというと、「いちじくの季節でなかったからである」とあります。つまり、いちじくのなる季節ではなかったから、まあ、ないのも当然なんですね。なのに、イエスさまはここで、前のほうですが、マルコによる福音書11章14節、

そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。(マルコ11:14)

まあ、常識で言えば、いちじくの実は、なっていないもの当然なのに、イエスさまは、そのことに対して、「永遠に実がならないように」と宣言したんですね。それは短絡的に考えると、「お腹が空いていたのに実がならなかったから、腹を立てた」というふうに考えられますが、イエスさまは、そのようなことで腹を立てたわけではなく、実がなっていなかった、という事実に対して、呪いの宣言をされた、ということです。そのようなことが、エルサレム入城の翌日にありました。そして、今日の箇所は、その翌朝の話ですね。そして20節ですね。

朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。(マルコ11:20)

一晩で枯れてしまったのです。「一晩で枯れる」というのは、普通に考えたら、ちょっと、おかしいですよね。一晩で、根元から、全部が枯れ木となっていた、これはイエス・キリストが、「今から後、いつまでも、お前の実を食べる者がないように」と。いちじくの木に向かって、言葉を発せられたことによって起こった現象です。その言葉によって、枯れてしまった。植物も、動物や、人間と同じで、生きていますよね。そして、生きていて、やはり、言葉を理解するんですね。人間だけが、言葉を喋りますが、動物を飼っていらっしゃる方は、わかると思いますが、動物に向かって何かを言ったときに、その動物は、言葉を理解すると思います。それと同じように、その言葉を、植物も理解するのですね。なぜならば、言葉によって、この全宇宙、そして地球ができたからです。

その言葉というのは、神の言葉、「イエス・キリストは、言葉であった」というふうに、ヨハネ福音書に載っていますが、「言葉によって、すべてができた」というふうにも書いてありますね。そして、言葉によって、このいちじくの木が枯れてしまった、ということです。半日ぐらいで枯れてしまったんですね。それを見たペテロは、21節、

そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。(マルコ11:21)

と、びっくりして言いました。イエスさまは、祝福だけじゃなく、呪いも、言われることがあるんですね。これは驚きますね。神さまというのは、祝福されるだけでなく、呪いも、宣言されることがあるということです。何に向かって呪うのかというと、「実がならない」ということに対して、呪われる、ということです。そして、イエスさまは、答えられます。22節、

イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。(マルコ11:22、23)

ここは、じっくり読むべきところですね。何を言っているかというと、山、大きな山、ありますね。日本で言えば、富士山、とかでしょうか。小さい山も、いろんな山がありますね。その山に向かって、イエス・キリストがもし、「動いて海に入れ」と言ったら、その山が、翌日には全部、海の中に沈没してしまっている、ということです。その目の前ですぐ成る、というよりも、これは時間差がありますね。

イエス・キリストが宣言されたのは、前日でした。そして翌朝、枯れていました。その宣言した瞬間から、次第に枯れ始めた、ということですね。そして、数時間で枯れてしまった。このように、山に向かって、「動いて海の中に入れ」と言ったら、いきなり目の前で、一秒で、バーンと、山が崩れて、海の中に入るというよりは、数時間の時間差があって、翌日、見てみたら、その山が消えている、ということです。これは、今の現代の地球で、あり得ないことにように感じますが、これは、どのようなことを言っているかというと、「山に向かって、海の中に入れ。すなわち、地震が起きる」ということですね。山が、トコトコトコトコと、温泉につかるように、ドボンと海に入るのではなく、地震が起こって、山が海の中に沈没してしまう、ということです。そして、なぜ、そのようなことを宣言するかというと、この「山」というのは、実際の山という意味もありますが、いつも聖書は、神さまは、二つ、三つの側面から、いろんなことを言われます。この目に見える現象のことも言われますし、またその奥深いところの、霊的なことも指して言われるのです。二重、三重の意味が、いつもあると思います。そして、ここを霊的に見た場合は、「山」というのは、神さまが、いつも臨在されている場所、というふうに、聖書には書かれています。
天の、神の国の、北の山の頂に、父なる神の座られている場所がある、というふうに書かれています。

ここは「神北(じんきた)」とつけてしまったんですけど、「じんきた」というのは、この場所が神宮北という地区で、私がちょうど、その時、区長をしていたので、「神北」という区長をしていたために、つけてしまったのですが、あとで考えるとですね、面白いことがたくさんあって、これを訓読みですると、「神来た」というふうにも読めますよね。「神来た・God came.」「神が来た」ということですね。その意味にも取れますし、また、ご存じと思いますが、「神さまは、北にいらっしゃる」と書いていますね。「北の山の頂に、臨在されている」神は北にいらっしゃる、という意味もあったんだなあ、良かったかなあ、と思って、ちょっと満足しているのですが、それは余談ですが、その山、神さまが臨在される場所が、「動く」と書いてあります。「動き出して、海の中へ入る」つまり、神さまの臨在するところが、震わされる。それは、私たちの祈りが神に届き、神が、その祈り、全き信仰を聞いて、感動される、ということですね。神さまも、喜んだり悲しんだりされます。そして、全く疑わないで、信じ切った人の祈りを、神は、感動をもって聞かれているのですね。そして、心に疑いがなかったときに、その通りになる、と書いています。

この、全く疑わずに、必ず成ると信じるのが、信仰と言われています。クリスチャンは、信仰があるのですけれども、「私たちはなかなか信じられない者です」とかいう祈りは、それは謙遜の祈りではありません。神の前では、それは不信仰の宣言となります。自分を、低く低くして言って、「私は信仰がない者です」とか、「取るに足らない者です」とか、「どうしようもない汚れた者です」とかいうとき、一見、謙遜な祈りに聞こえますが、それは謙遜というのではなく、卑下している、ということであり、また、神さまは、そのような祈りを、必ずしも、喜ばれるとは限らない。神さまの喜ばれる祈りというのは、全く疑わないで、必ず成ると信じきっている祈り、ということです。これはとても難しいことですね。

私たちも、毎日の中で、全く疑わないで信じ切るということが、難しい瞬間があります。「今度は給料、ちゃんと入るかな。もしかしたら、社長は忘れているんじゃないかな?」とか、そのような不安を感じたりしますね。給料日に、給料が振り込まれていないとショックです。小さいレベルでは、そのようなことがありますが、大きいレベルでは、ものすごく大変な病気になったときに、「必ず治る」と、心に疑わずに信じる、ということが、ものすごく難しいことになってきます。そこで、私たちがこれから、クリスチャンとして歩んでいくときに、大切なことは、疑わないで信じ切る信仰を、訓練されて持つ必要がある、ということです。

たとえば、私はピアノを弾きますが、一日で弾けるようになったわけではありません。何年も何年も練習を重ねて、少しずつできるようになったのです。それと同じように、信仰もですね。訓練というのが要ります。たとえば、救われた日、突然その日から、全く疑わない、全き信仰になる、ということはないです。どんなアスリートでも、どんなミュージシャンでも、その一定の高みのレベルになるため一生懸命、努力しますね。私たちは、いろんな、スポーツの選手だったり、先生は力士が好きですけど、そういういろんな方、ものすごく、切磋琢磨、努力をされています。そして、クリスチャンだけが、なぜか教会に行くと、「努力はしないでいいんです。ありのままでいいんです。そのままでいいんです。そのままのあなたを、神は愛してくださいます」というふうに、言われますね。それは、ある一面は、本当にその通りです。しかし、それはあくまでも、教会の入り口であり、導入であり、最初の門である、ということです。最初の門は、ありのまま、そのままを認めて、イエス・キリストを信じる。ただそれだけ。そして、そこから、長いクリスチャン人生を歩むときに、訓練されていく、ということです。そして、続きます。24節、

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(マルコ11:24)

自分が祈ったことですね。祈って、「アーメン」と言った直後に、「やっぱり、無理なんじゃないかな‥‥」とか、「社長、やっぱり給料入れるの、忘れるんじゃないか」なんかそればっか言ってますけど、(笑)最近ちょっと、○○さんが、給料五日払いなのに、五日に入っていない、という事件があったんですね。で、祈ったのに、やっぱり神さまは聞いてくれないんじゃないか、無理なんじゃないかという思いが出てきますよね。「それは不信仰である」と書かれています。祈って、「アーメン」とイエスさまの名前を通して、神にお任せしたことをすべて、そのとおりになると、そのときに、すべて神にゆだねる。そうすると、そのとおりになる、と書いています。

A先生が言われたことを、私、いろんなことを覚えています。牧師先生って気をつけてくださいね。いろんなことを語っているのを、みんなしっかり頭に入っているので。特に、私は10代だったので、もう脳裏に刻まれています。で、先生が言われたことの中に、「祈ったことは、もうこの瞬間、神さまにお任せしたから、私は何も心配しない」と、いうふうに言われましたね。それがこのマルコ福音書11章の24節です。神に祈ったのに疑う、というのは、不信仰の罪、ということになります。そして、また続きますね。25節、

立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。(マルコ11:25)

なかなか許せないというようなことがありますが、「何か恨み言」って言うからには、けっこう奥深い、ちょっと嫌なことですよね。「それを許しなさい」とあります。なぜならば、

天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださる(マルコ11:25)

からです。すでにクリスチャンは、神に赦された存在となっているから、他人も赦す。そして、口語訳にはですね。ちょっと続いているんですけど、読んでみますね。

もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう(マルコ11:26)

これは別の箇所に、ちょっとお金を貸してあげてた人がいました。そして、その貸してあげていた人は、もっと大金を、ある人から借りていました。そしたら、その大金を貸してくださった方が、「もういいよ」と言って、全額免除にしてくださったんですね。そして、大喜びで帰る、その帰り道の途中に、ちょっとお金を貸している人に会ったときに、「早く帰せ!」と言って、「帰さない限り決して許さないぞ!」と言って、その人をひどい目に遭わせた、という話ですね。まあ、これをお金にたとえるならば、1000万借りていたのに、その1000万が免除になった。そして、帰り道に、10万円貸している人に出会ったときに、その10万円を許さない、というようなことです。これは実際に、イエスさまが、私たちの罪を、全額免除してくださっているという事実のもとに、私たちは、いま生きていますが、その全額免除されているにもかかわらず、他人の些細なことを許すことができない、という場合は、神さまも、あなたを赦さない。「赦さない」って、どういうことかというと、「神の国に行けない」ということですね。神の国に入るパスポートを、私たちは頂いているのに、誰かを許さない場合、そのパスポートを、返却しないといけなくなる、と書いてありますね。
 
もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう。(マルコ11:26)

だから、自分のために許す、のです。まず、自分自身のために許す。そして次に、相手のために許す。私が普段やっていることはですね、「ものすごく嫌だな」ということがあった場合、その人をすぐに「許す」と口で宣言するのです。心の中に、その人に対して許せないわだかまりがあるときにですね、「○○さんを許します。神さまが、私を赦してくださるように、○○さんを許します」「○○さんを許しますから、私の罪も赦してください」という言葉を、ときどき言っています。そして、その宣言する言葉によって、神が、それを聞いてくださって、よしとしてくださる。そして、そのように心が導かれていく、ということです。

今日の箇所は、言葉は、いかに力があるか、ということを、ひとつは、言われている箇所です。

「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」(マルコ11:12)

と言われてだけで、枯れてしまった。そのように、「これはイエス・キリストだからじゃないの?」と、思われると思いますが、もちろん、イエス・キリストは神の子であり、特別なお方です。そして、その言葉によって、すべてが成っている。しかし、イエス・キリストを信じる人は、キリストと同じようにされる、と聖書のいろんな箇所に載っています。ですから、私たちが何か心で思い、口で宣言するときに、それがその通りになってくる、ということです。

この「信仰」ということを、私は、考えたことがあるのですが、みなさんは、考えたことがありますか?信仰というのは、どんなことを言うんだろう?って。「信じる、信じる」と、握りこぶしをして演歌歌手のように、「信じるぞー!」とか言って「エイエイオー!」とか言って気合を入れて、やるようなことを、信仰と思うかもしれませんが、それはただの気合、自分にちょっと喝(かつ)を入れている、ということで、信仰というのは、ただ信じる、というだけで、それがまた難しいんですよね。「じゃあ、信じるってどうしたらいいの?」っていうと、これですね。聖書。この聖書に書いてある言葉を、疑わないで信じる。そして、これは、人間が書いたものではなく、神が霊感によって書かれたというふうに信じる。そして、書いてある言葉を、心に信じて、いつも頭で考えて、そして口で言って、そして、そのとおりやってみる、ということですね。本当に成るかどうか、やってみたらいかがでしょうか。

私が、こうやって、家で、教会みたいなことやってるの、自分で不思議でしょうがないんですよね。やろうと思ったことなんか、全然ないですから。そんな、野望とかビジョンとか持ったことないんですけど、いつの間にか、なにか、やらされてたという感じなんですけど、で、これもまあ、訓練なのかなあ、と思っているんですね。私は日頃よく、反省することがあるんですよ。たとえば、私はピアノを弾けますよね。だけど、自分の能力、限界まで挑戦してないんですよ。適当に弾けるようなところで、なんとなく弾けてるんですね。それで、いろんな芸能人とか、アスリートとか見たとき、ものすごく頑張ってるんですよ。そして、そういうのに、とても励まされるんですね。あの方たちは、この世の方ではないですか。クリスチャンではないのに、あんなに頑張っている。頑張っている目的は、自分自身の自己実現のためなんですね。そして、クリスチャンというのは、自分のためではなく、神の栄光のために頑張る者、ですよね。そして、ほとんどの人が、信じて救われて、そこで止まっている。そこでずっと、何年も、何十年も、その状態でとどまり続けて、そして、いつの日か天国に行く、ということが多いですが、もちろんそれも、すばらしいことです。救われているのですから。ただし、神の国に行ったときにですね。ちょっと後悔するんですね。

神の国って、死んだあと行く極楽、ではなくて、永遠に続く神の国で、神が真ん中に王として臨在されている中で、生き生きと動く、この今の生活なんですよ。私たちは今日、生きてるでしょ。この生活が、神の国で永遠に続く、ということなんですね。そして、そこでは、当然、いろんなやるべき使命が与えられます。「はい、あなたはこれ、あなたはこれ」と、いうふうに、給料のために働くのではなく、神のために働く。そして、私たちは生活の心配もせず、健康の心配もせず、病気も死もありませんし、悪人もいませんし、罪もない、ものすごくきよらかな、満ち足りた生活の中で、何の心配もなく、毎日を生き生きと、仕事をしながら生きていくんですよ。仕事は食べるためにするのではなく、神に喜ばれるためにする。そして、仕事をしながら、また遊びながら、平和に楽しく暮らす、ということが、永遠にこれから待っているんですね。そのときに、この地上で、いかに生きたかによって、その人たちに与えられる役割が違う、と書かれています。タラントを用いた人の話とか、いろいろありますね。

そして、そのときに、この地上で、どのような生き方をしたか、ということが、永遠の神の国に、ものすごく影響する、ということです。ですから、この地上は、疑いに満ちています。疑いに満ちているこの地上において、いかに、イエス・キリストの言葉を信じ抜いたか、そのことが問われます。

そして、信仰だけではなく、「山を動かすほどの信仰があっても、もし愛がないなら」と、第一コリント13章に書かれていますね。山を動かすほどの、ものすごい強い信仰がある人は、ものすごい奇跡も起きるんですね。イエス・キリストのように。「しかし、もしその人に愛がないならば、何の役にも立たない」とあるように、いちばん大切なことは、愛です。しかし、いくら愛があっても、信仰がなければ意味がない、ということで、根っことなる基本レベルは、疑わないで信じる信仰が、まず土台に要る、ということです。この信仰は、「絶対に信じてやるぞ」とかいう、私たちの側の意志や思いではなく、神が聖霊によって与えられる、私たちの内側からあふれ出てくるものです。そして、その聖霊の働きと、御言葉とによって、私たちが、毎日の食事をするように、食事を食べていくときに、だんだんだんだん、成長していき、そして訓練されていき、神の用事ができる者へと、整えられていく、ということで、イエスさまは、ただ救われるだけの人を、たくさん起こしたいと思われているのではなく、このように、疑わないで信じる人たちをたくさん起こしたい、と願っておられます。

その「信じる」というのは、簡単に言うと、「お任せする」ということです。私たちが、いろんな重たい荷物を背中にしょってるときに、それを神に、「よろしくお願いします」と、ポンと差し出して、「この方なら、必ずやってくれる」と、信じる。それが信仰、です。たとえば郵便局に行って、「はい、これ、速達でお願いします」とか言って、「この郵便局員、本当に送るかな。もしかしたら、切手代だけ盗み取って、この郵便物、ゴミ箱に捨ててしまうんじゃないかな?」とか、「この人、忘れてしまうんじゃないかな。私のだけ、どこか行ってしまうんじゃないかな」とか、そういうこと、ほとんど不安にならないと思うんですよ。日本にいて、日本人が仕事をするとき、相手のことを信用しますよね。それが信仰なんですよ。

私たちは日頃、相手を信じるということによって、成り立っている、この世の中です。相手を信じることができなければ、私たちは生きていくことができません。宅急便をお任せしても、「宅急便の中身を、宅急便の会社の人が、食べてしまうんじゃないか」とか思ったら、宅急便送ることもできませんし、そこにも信仰は働いているんですね。宅急便の会社を信じきっているんですよ。これが「信仰」と言われています。

神さまは、ましてや、素晴らしいお方なので、私たちが「よろしくお願いします」と言ったことは、絶対に覚えておられて、必ずかなえてくださる、ということを、信じ抜く信仰を、私たちは日々、訓練されていく必要がある。そして、それが訓練されて、ある一定期間の訓練が終わったときには、本当に疑わないで信じる、という信仰(水の上を歩く信仰)が育っていて、そして、その人が、それを、その人が木に向かって、山に向かって、命令したときに、それが成る、ということです。アーメン。