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「しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。
大祭司は再び聞きだして言った、
『あなたはほむべき者の子、キリストであるか。』
イエスは言われた、
『わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、
天の雲に乗って来るのを見るであろう。』(マルコ14:61~62)」
・・・(中略)・・・

「ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちが
またペテロに行った、
『確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから。』
しかし、彼は、
『あなた方の話しているその人のことは何も知らない』と言い張って、
激しく誓いはじめた。するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、
『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』
と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。
(マルコ14:70~72)」

イエスキリストは、ゲッセマネの園で、弟子の一人のユダに裏切られ捕えられ、
大祭司カヤパの官邸で裁判を受けられた。
色々な不利な証言が述べられる中、大祭司が、核心に迫る質問をした。

イエスは、忍耐し沈黙されていたが、大祭司の質問に対し、初めて口を開かれた。
『わたしがそれである。キリストである』と答えられた。
自分を神の子とした、その事で、ユダヤ人から神への冒涜と捉えられ、
まさに死刑をされようとしている中、イエスはきっぱりと真実を言われたのである。

人間は、自分が窮地に陥った時、自己愛から自分を庇おうとするのが常である。
しかし、神の子は違う。
自分を庇うのではなく、神の真実、義を貫かれるのである。
イエスは真実を言い放ち、自分が、まぎれもなく神の子キリストであり、
これから神の右に座し(復活後)、いずれ天の雲に乗り再臨する事を述べられた。

それに対比し、ペテロの『その人のことは何も知らない』と言い放った発言は、
キリストの言葉とは天と地ほどの差のある対照的な言葉である。
これが、窮地に陥った際の人間の正常な状態とも言える。
人間は、このように自己愛の強い生きものである。
自分を守る為、咄嗟にこのような事を言い放つ自己防衛本能を持っている。

イエスは、神の子として人類の罪を身代わりに背負い、死と悪魔とよみとを
打ち破り、父なる神に一度限り断罪される、という使命の為に覚悟されていた。

ペテロは、この時はまだ聖霊を受けておらず、肉の弱い性質を持っていた。
その為、三年半も共に過ごした師匠を、いとも簡単に裏切る事ができたのである。
しかし、エルサレムの人から見たら、ペテロの話し方(イントネーションや方言)は、
ガリラヤ地方独特の喋り方であり、一目で見抜かれてしまったのである。
ペテロは、エルサレム首都人の話し方とは違っていたので、嘘をついても
すぐにばれてしまった。
(十二弟子の中、ユダだけが都会人で、あとは、イエスを含めガリラヤ人だった)

イエスは、このような弱いペテロ(わたし達も)の為にも、十字架に架かられた。
真に強い義と愛の持ち主であるイエスだけが、十字架の贖罪を成す事ができた。

人間でも、愛のある方や隣人の犠牲になる方はおられるが、そのようなものでなく、
イエスは、父なる神への完全な愛と従順とを持って、十字架へと進まれたのである。
自分を陥れた者、裏切った者、つばきをかけた者、嘲った者、鞭打った者、
十字架に釘づけにした者、恩知らずの者、薄情な者、・・・そのような者達を
赦し、そのような者達の事さえ父なる神に赦しを乞い、身代わりとなられた。

多くの人が二千年間キリストを信じ続けてきたのは、まさにイエスが、
勇敢な正義と愛の持ち主、神の子救い主であるのが、まぎれもない真実だから
である。

いずれ、イエスキリストは、栄光に輝き、天の雲に乗って降りて来られる。
艱難時代と言われる七年間の地上への裁きがあった後、そのようになる。
その時、イエスを信じる者は喜びに溢れ、イエスを信じず悪魔に従う者は、
神の真実に直面し恐れおののく事になる。
どちらを選びとるかの判断は、個々の自由意志に任されている。
神は、偽りでなく真実を選びとるよう、個々に促されている。
悪魔は、人を洗脳し騙すが、真の神は、人を解放し憐れまれる。