祖母たまのから聞いた話を思い出した、昔東京神田で男爵家に奉公に出ていた。

 

宮城県出身の体の弱い祖父稔と結婚したが38で喘息で他界、函館で銭湯の経営や組合の理事、万事屋(なんでもや)もやっていたが、函館大火の時に当時で言うつけ回し(今でいうボーナス払い)の回収が滞って破産し苦労した。

子供たちはみな公務員にした。

またはそれを選んだ。

私が小児ぜんそくで眠れないと、変なもの残しやがってと遺伝のことで祖父を怒っていた。戦争中の空襲で息子ミキを一人失っていたので、鬼畜米兵はきらいと言っていた。

また、北洋漁船が多数拿捕されたり帰ってこなかったりしたのでロシア人を露助と呼んで人さらいといっていた。

この友達とは付き合うなと言って家にはいれてもらえなかった友達がいた。在留外国人だったことは後で苗字から推測できたが当時はわからなかった。

トマトは人肉の味がすると誰かに聞いたらしく口にすることはなかった。

女手で5人育てたのだからそれなりに豪快だったんだろうな。

自分には優しかったが姉と妹にはそっけなかったようだ。7歳の時盲腸の手術をした苦しくて眠れないとき、無意識にばあちゃんばあちゃんとうなされていたと母から聞いた。

それから母はすねて冷たかった。