まだかまだかと待ちに待ったW杯。1991年12月に中国で開催が決まり、そのアジア予選が日本の福岡でその年の5月にありました。

 私はまだ行く先のチームも決まらず、中野さんの『すすきのレディース』というチームに名前だけ所属させてもらい、練習は相変わらず日大男子サッカー部に出させてもらっていました。

 

 3月のブルガリア遠征では、ヴァルナ国際大会に出場。フランスに1-3で敗れ、スウェーデンに2-2の引き分け、ハンガリーに2-0で勝ち、中国に0-3で負けでした。中国は代表チームではなかったようです。

毎試合メンバーを変え、いろいろな組み合わせを試しました。

 4月には強化合宿を行い、GWをはさんで岡山で事前合宿をやります。

 美作という所だったけど、とても遠かった…。交通の便が良くないからかな?すごく時間がかかった。

けど、着いたら『日本女子サッカー代表ようこそ美作へ』的な横断幕を掲げてお迎えの人たちが集まっていた。中国で歓迎を受けることはあったけど、国内の合宿で歓迎されるという事は今までなかったので、感激しましたよ。温泉はあるし、ご飯は美味しいし、すごく良い所でした。

 

 10日間の合宿の最終日、練習の最後にFWとDF別れてFWはピンチシュート、DFはピンチクリアという練習をしていました。

これはすごくハードで苦しい練習です。野球で言うの100本ノックかな。

私はFW組。ペナルティエリアの半円あたりにボールを集めて、順番に一人ずつやります。コーチが左右に転がしたボールを追いかけて行ってシュート、またすぐ逆に出されたボールをコーチの背後を回って、追いかけてシュート、ヘロヘロになるまで繰り返すのです。

 FW組が先に終わって、DF組のピンチシュートを芝の上に座って眺めていました。ピンチシュートは、ゴールに一人ずつ入って、やっぱり左右に振られるボールをヘロヘロになるまで次々クリアしていくのです。

「うわーきつそ~」

と思いながらも、もう私たちは終わったので、気楽に見ていました。

全員終わったところで、木岡さんが立ち上がり、「私もやりたい!」と志願しました。

木岡さんはFW組だったので、ピンチシュートをやった後です。

凡人のあたしには考えられない!すごすぎる木岡さん!

 木岡さんはゴールに入り、ボールが次々と出されていきます。「エイっ」といちいち声を上げ、力を振り絞って足を振るその動作がコミカルで面白く、私たちは周りでゲラゲラ笑いながら見ていました。

 

 足が届かないようなボールをスライディングしようとしたのか、スライディングにならずにコケた木岡さん。

もう、その様子がおかしくておかしくて…私はお腹をかかえて、ゲラゲラと地面を転げまわって笑っていました。

 皆も初めは一緒に笑っていましたが、いつまでも立ち上がらない木岡さん。

ん?なんか周りの空気も変だぞ!?

やっと気づき、私は笑うのをやめました。

「ウソでしょ、なに?どうしたの?」

「ヤバイ?」

選手がみんな木岡さんを取り囲むように集まりましたが、木岡さんはうずくまったまま動きませんでした。

 

 そのまま病院に運ばれていき、夕食の時に「骨折らしいよ」と聞かされました。

ガーン…ウソでしょ…ウソであって欲しい。

だって、すぐにW杯の予選がはじまるんだよ。

キャプテンでエースの木岡さんが離脱!?ヤバすぎるでしょ。

 W杯に出場するには、アジアで2位に入らなくてはいけません。

アジア大会では2位に入ったものの、あれだって本当にギリギリ。大黒柱抜きで台湾と北朝鮮に勝てるのか?

チームのみんなが動揺していました。

 

 木岡さんは病院から戻ると、そのまま入院する為に広島の病院へ行くことに。

松葉づえを突きながら車に乗り込む木岡さんを全員で見送りました。

木岡さんは涙も見せず、気丈にふるまっていました。

なんて声をかけて良いのか、言葉がみつかりません。

車が見えなくなると、

「ふたばを絶対W杯に連れて行かな!」

と加治さんが、しょんぼりしているみんなを鼓舞するように言いました。

 そうだ、絶対に負けるわけにはいかない。

私たちが木岡さんをW杯でプレーさせなくっちゃ。

そう思うとともに、こんな大変なこととも知らずいつまでも笑い転げていた自分を責め、木岡さんに申し訳なさでいっぱいなのでした(涙)

 

 岡山合宿が終わって3日後にはいよいよW杯予選の行われる福岡に乗り込むのです。