「就職の問題もあるので、今年度いっぱいでチームを辞めさせてもらいたい」と永沢さんに相談したのが夏、8月でした。
それから9月~10月に北京アジア大会があり、銀メダルを持ち帰ってチームの練習に行きました。
銀メダルを手に、自分の事の様に喜んでくれるチームメート達。
私は、チームを離れると決めているのに、それを伝えられない事に心苦しさを感じていました。
「待って」と言われたから、その言葉を信じてずっと返事を待っていたんです。きっと良いように考えてくれているんだろう。
でも、私だって早く次の進路を決めないと、実業団のチームだって、急に入りたいと言って入れてくれるとも思えない。だって、サッカーだけでなく、就職だってしたいのだから…。
永沢さんの方から何も返答がないので、待ちきれず、私から聞きました。
「私が辞める事を新光精工は了承してくれたんですか?」
すると、
「まだチームを辞めたいと思っていたのか?もう辞める気はなくなったのかと思っていたよ。」
と耳を疑うような思いもかけない言葉が返ってきたのです。
新光精工との契約書には、『選手の移籍を認めない』という一文が入っているので、移籍は出来ないという事でした。
私は直接新光精工の会社と話し合いたいと思い、何度も会社に電話しましたが、繋いでもらえません。
「電話に出た人の名前を聞いてみろ」
と父に教わり、
「失礼ですが…」
と名前を尋ねてみたら、初めて電話をつないでもらえた。へ~、そういうものなのね~。
せっかく繋がった電話で、
「選手とは契約していないので、話し合うつもりはない」
と電話を切られてしまったのです。
「サッカー協会に相談できる人はいないのか?」
と父に聞かれたので、女子代表の遠征に団長として帯同してくれていた中野さんや、女子代表監督のたもつさんに相談します。
2人ともとても親身に相談に乗ってくれました。しかし、一向に移籍承諾書はもらえず、時間ばかりが過ぎていきます。
ひとり学校へ向かう満員電車の中、泣こうとも思っていないのに、突然涙が溢れ出てきました。こんなに涙って勝手に出てくるもの?とびっくりするくらい止まりません。
何がこんなにも悲しいのか…。
卒業がせまっているのに就職活動もチーム探しも出来ない状態が続いていた、将来への不安はもちろんありました。
でもそれ以上に悲しかったのはチームを円満に辞めることが出来なかった事。
チームメートからは何度も「話をしたい」とファミレスに呼び出されました。何度も、どうしてチームを辞めなくてはならないかを説明しました。それなのに最後には
「で、どうしたらチームに残ってくれるの?」って。
なんでわかってくれないんだろう…。
私が社会人になるのが一番早く回ってきただけで、みんなも順番に同じ立場になるのに。
私はチームを卒業して次のステップアップをしたいだけなのに。
巣立たせてもらえない。
その時はなんでだろうって、全く理解できなかった。その答えがわかるのに何年もかかってしまった。
ある時、ふと気が付いた。そうか、「自分の事をわかって」って一生懸命訴えていたけど、相手だってそうだったんだ。お互いに「自分の事をわかって」と言い合っているんだから、いくら話しても平行線だったんだね。こんな当たり前のことに気づくのにずいぶん時間がかかってしまった。
自分の事を分かって欲しかったら、まず相手の事を理解しようと話を聞かなきゃいけないんだな。
あの時は、私だって残される選手たちの事も考えているつもりだった。だから練習の面倒をみてくれる指導者も見つけてきたしね。でも私が相手の事を考えてるつもりになっていたのは、私の立場からしか考えてなかったんだ。相手の立場に立って考えることが出来てなかった。
それまで散々、逆の立場で、辞めたいって言う選手たちを引き留めていたくせに…。
「サッカーをやってて良かったことなんて、ひとつもない!」
って逆ギレされるのも当然だ。ほんとに自己中だったのね。今ならよくわかる。
なんて過去形で言うと「今でも十分自己中だよ」ってうちの家族からの声が聞こえてきそうですけど(笑)
そう、わかるのと出来るのは違う。きっと私の人生死ぬまで修行です (笑)
そうそう、私が指導者を見つけてきた話、これもかなり面白いエピソードだと思うので聞いてください。
選手だけでのチーム練習をどうにかしたいと思っていた私。
ある日、学校から家に帰ろうと校内を歩いていました。ホール前の池の辺りでブラブラ歩いている同じクラスの沖山君を見かけました。
決して最初から白羽の矢を立てていた訳ではありません。
沖山君は日大サッカーの本部ではなく、本部並みに強いと言われていた『チョンボーズ』というサッカーサークルに入っていました。
なんとなく、この人ならやってくれるかもしれない、と直感が働き、話しかけてみました。
「就職はもう決まった?」
「まだ何も決まってないよ。お前は?」
「私もいろいろ事情があってねぇ。まだ何も決まってない。暇ならうちのチーム、指導者が誰もいなくて困っているから来てもらえないかなぁ?」
「暇ってわけじゃないけど…。興味はあるな。」
「私はもうすぐ辞めちゃっていなくなるけど、その後も面倒みてくれるとありがたいんだよね。」
そんな会話をした数日後、何の報酬もなく、交通費さえ出ないのに、練習に来てくれるようになりました。
そして…私がいなくなった後の彼の経歴がすごい。
新光精工のコーチをやった後、新光精工がシダックスに身売りし、そのままコーチに就任。国体では東京都選抜女子の監督として準優勝。その後、東京女子体育大学コーチを経て大原学園女子サッカークラブの監督に就任。長野県サッカー協会技術委員・女子委員・キッズ委員を歴任。サッカー協会のインストラクターから2008年3月よりJFAアカデミー福島女子コーチ兼女子ナショナルトレセンコーチになっちゃった。それだけでも十分すごいなぁと思っていたら2012年には、とうとうヨルダン女子代表監督に登り詰めちゃった。日本代表対ヨルダン代表の試合をテレビで観た時、私が一番驚いていたかもね。
人生、いつどこへどの様に転がるか分からないものです。
話を私の話に戻します。3月に入っても、移籍承諾書がもらえる気配はなく、『脱退届』をチームに提出しました。
すると、チームからは
『移籍承諾書は発行できません。退部を思いとどまるように。クラブの意向を理解してもらえない場合は脱退届を受理し、抹消登録を行います』
という返事が届きます。
抹消登録?!そんな、理不尽な…このままでは日本代表でプレーすることもできなくなっちゃう…。ワールドカップ出場を目指しているのに…。
ますます泥沼化していく移籍騒動ですが、あっと驚く大ドンデン。こんなことも私の人生にはとても意味のある事に繋がっていくのです。つづく