中国台北国際大会では、アメリカチームに観ていてワクワクするようなドリブラーがいました。それが引退後にアメリカ代表の監督になり、2004年アテネオリンピックで優勝に導くエープリル ヘインリックスです。

 アメリカチームには、ミッシェル エーカーズというサイボーグ(おっと失礼!でもそのくらい凄い!)と日本チームの中では呼ばれていた選手が現れるのですが、この大会には参加していなかったと思います。エープリルとエーカーズがアメリカ代表の中心として活躍、そのうち女子サッカー界のスター、ミアハムが登場してアメリカの黄金期がやってきます。

 

 大会中にホテル内で立食パーティーがあったのですが、会場にはイスも置いてあって、たまたま私の座っている席の近くにそのエープリルが座りました。チャンスとばかりに話しかけます。「ユープレイベリーグッド」すごいワクワクするようなプレーを褒めたいのですが、私の英語力はこの程度です(汗)まぁ、伝わればいいんです。他に何を話せるか?そうだ!「ジャパンユニフォーム、USAユニフォームチェンジプリーズ」となんと大胆にもユニフォーム交換をお願いしてみましたが、ユニフォームの発音が違うのかなかなか伝わりません。ジェスチャーを交えながらどうにか伝わったみたいですが、相手の言っている英語は全く何を言っているのか理解できませんでした。首を横に振っているところを見ると、どうもダメらしいという事はわかりました。最初からダメ元で言っているので、そうがっかりもしなかったんです。

 

 大会最終日、部屋で帰国準備するためにスーツケースに荷物を詰め込んでいる最中でした。帰りはいつも荷物が増えてしまい、スーツケースの中に納まらなくなってしまいます。スーツケースの上に乗っかり、全体重をかけてどうにか蓋を閉めようと悪戦苦闘していました。

 コンコンとノックの音が聞こえ、部屋のドアを開けると、なんとエープリルが立っているのです。「Hi NAGA!」

 私の部屋番号を調べたのでしょうか?エープリルが訪ねてきてくれたのです。相変わらず相手の英語は理解できませんが、どうも付いてこいと言っているようなのです。どこに行くんだろう?訳もわからず付いていくと、エレベーターで別の階に行き、エープリルの部屋に連れて行ってくれました。

 いろいろ話しかけてくれるのですが、全くわからない。この時ほど英語ができないことを残念に思ったことはありません。「代表チームのユニフォームはあげられないけれど、所属チームの物ならOK」と言っていたんだと思います。緑色のユニフォームをくれました。

 

 

 私も急いで自分の部屋に戻り、日本のユニフォームとカメラを持ってきました。エープリルにユニフォームを渡し、写真をとらせてもらいました。大会後に一緒に撮った写真を送り、英語で文通をしました。その後、何度もいろいろな大会で会うことができましたが、毎回、向こうから私を見つけて「NAGA!」って声をかけてくれる気さくで素敵な人なんです。毎回必ず「英語がうまくなったね」って褒めてくれました。たいして話せる様になってるわけじゃないのですが、最初がよっぽどひどかったんでしょうねぇ。

 2004年アテネオリンピックでアメリカ代表の監督がエープリルだった時には鳥肌が立ちました。しかも優勝したんですから大したものです。テレビにかじりついてエープリルの勇姿を感動して観てましたよ~。

 

海外の大会に参加すると、大会中に全チーム揃ってのレセプションがあり、各チーム出し物をやるというのが通例でした。この大会のレセプションでは、全チーム舞台の上に上がってそれぞれ出し物をやるということで、何が良いか皆で話し合いました。日本の出し物として、当時日本で大流行していたチェッカーズの『ギザギザハートの子守唄』を全員で歌って踊る事に決まりました。    大会中暇を見つけては一つの部屋に集まって踊りの練習をするのです。本番は曲の途中でたかっぺが得意の高速リフティングを披露し、会場大受けでした。チェッカーズの曲も反響があり、テープを欲しがる外国の選手もいましたね。

 アメリカチームの出し物は、選手たちがマジックで顔を書いたシーツをかぶって歌ったり踊ったり。すごく楽しかったのですが、「あのシーツ、これの為にアメリカから準備してきたのかなぁ」「アメリカからあんな荷物になるのを持て来ないんじゃない?ホテルのシーツじゃない?」なんて疑惑浮上。

 

 帰る前には、ホテルの前で、サッカー少年の集団に囲まれ、サインをねだられました。サインを書くと、「アドレス」「アドレス」と言われ、「えー、住所も書くの?」と言いながら住所も書いたのです。日本に帰ってしばらく経つと大量の中国語のファンレターが届きました。みんな自分の写真を同封してくるんです。イタリア人と同じだ。台湾人も自分の写真を贈る習慣があるんだぁと笑っちゃいました。

 中国語は分からなくても漢字だからなんとなく意味がわかります。全員に日本語で返事を書き、またその返事がどっと来ました。そんな事を何回か繰り返し、段々数が減っていき、最後は林くんっていう子1人とずっと文通が続きました。

 他の日本代表のメンバーもやっぱりどっとファンレターが届いたと話していました。でもずっと何年も続いていたのは私だけじゃないかな?数年後の台湾遠征の時には大きくなった林くんが、私たちが滞在しているホテルまでバイクに乗って会いに来てくれたんですよ~。同封されてくる写真を見ていたので、すぐわかりました。その時はホテルのロビーで通訳も交えて話をする事ができました。年代別の台湾代表にも選ばれているなんてこともわかり、へーサッカー上手いのね~と通訳付きだからこそ分かった新事実も。

 数年後、日本に来たいと、私のところへ遊びに来たいと手紙に書いてきたことがあって、実家にいたら東京だし、なんなら泊まってもらっても良かったのですが、その頃私は静岡の清水で一人暮らし。遊びに来られても困るなぁと返事をしないでいたら、それきり文通は途絶えてしまいました。日本には遊びに来る事が出来たのかしら…気になるところです。