1983年11月、私は中3で今度は本当に正真正銘日本代表に選ばれました。中国の広州で国際大会があったのです。

代表は、全国大会を3連覇した清水第八のメンバーが中心で、他のチームから数人加わって構成されていました。監督はジンナンの折井孝男さん。コーチが清水第八の杉山勝四郎さん。

 

11月と言えば、受験生にとっては、内申に一番重要な2学期の成績を決めるテストがありましたが、迷わず参加を決めました。それぞれの学校で対応は違いましたが、私の行っていた学校では、日本代表の遠征と言っても公欠にはならず、受験にはマイナスにしかならなかったのです。当時は一回の海外遠征に三万円の自己負担がありました。私は未成年だったので、親が大変だったと思いますが、社会人の選手は、仕事を休んでお給料は入らないし、より大変だったんだろうなぁと思います。

 

日本代表なんですけど、当時の私たちに自覚はほとんどなく、意識の低かったこと低かったこと。初の海外に、すっかり遠足気分。3日間の検見川合宿最終日、広州出発前日には、皆で駅前のスーパーまでお買い物に出かけ、カップラーメンやお菓子などを買い込んで、スーツケース半分くらいはそんな物で埋まっていた様に思います。

 

中華民航に乗って日本とは全く雰囲気の違う中国広州に夜到着しました。すべてが初めてづくし、何でも新鮮でした。もちろんしゃべっている言葉もわからないし、中国人は皆早口で、誰もがまるで喧嘩をしているように聞こえました。服もその頃は皆同じ様な人民服を着て、人民帽をかぶり、当時は髪の毛を染めている人なんていませんでしたねぇ。服、帽子、自転車、全て紺色か渋い緑色でした。古い建造物に町全体がセピア色、昔の時代にタイムスリップしてきたような印象でした。「十年前の日本がこんな感じだったよ。」とスタッフの一人が言っていました。

 

空港からはパトカーに先導されてホテルに向かいます。代表の試合では、移動の度にパトカーに先導されることが少なくないのですが、初めての時は皆大興奮。車が道を開けてくれてノンストップで走れるというのは気分が良いものです。

到着した広州のホテルは、池のある庭園つきの落ち着いた雰囲気でとても立派でした。飯店と大きく書いてあるのでレストランかと思いきや、中国語でホテルのことなんですね。同じポジション同士でFWの松田理子さんと同部屋でした。高槻FC所属の全日本のストライカーです。しゃべったこともなかったので、緊張しましたねぇ。テレビをつけると、山口百恵の赤いシリーズのドラマがやっていました。山口百恵はすごい人気があるという事で、レセプションでは、皆で「ひと夏の経験」を歌いました。

 

私たちが出場する女子サッカーの大会もテレビ放送があり、ニュースでも毎日のように女子サッカーの話題でもちきり、日本では女子サッカーがテレビ放映されるのは年1回の全国大会の決勝だけでしたから、テレビに自分たちの試合も流れたりすると、大興奮(笑)大騒ぎしながら見ていました。

 

朝は、車のクラクションの音で目覚めました。日本では、めったなことではクラクションを鳴らさないのに、中国では、クラクションを鳴らしながら車が走っているという感じでした。窓を開けてみると、道路いっぱいに自転車、自転車、すごい数の自転車が走っていてびっくりです。道路は全くの無法地帯。中央ラインもないから左側通行も右側通行もありゃしない。そりゃ、クラクション鳴らす訳です。

 

食事では、スッポンや、かえるを初めて食べました。豚や鳥がそのまま丸々形のまま出てくるなんて事、日本じゃあ無いでしょ?何もかも珍しい事だらけなんです。円卓をルーレットの様に回して、誰のところに顔が向くかなんてキャーキャー悲鳴上げながらふざけていましたね。子供が多かったのです。

 

 

当時のキャプテンは既に大人の大原智子さんでした。理由は覚えていませんが、何かで怒らせてしまったことがあり、1つの部屋に若手メンバーが大勢集まって、「謝ろう」と話しあった事がありました。ただ謝るのではつまらない、皆で和田アキコの『笑って許して』を歌おう。面と向かってじゃぁ、笑って歌えなくなってしまうのでテープに録音して大原さんの部屋に電話して流そうという事になりました。

録音しながらだって、どうしたって笑ってしまうんです。「耳をふさいで歌おう」と、皆耳をふさいだら、デッキで録音する係りのHさんが、鼻をつまんで「いい?いくよー」と言っているのを見て皆大爆笑。「なんで鼻つまむの!」  「だって両手で耳塞いだら、ボタンが押せないから…」片手しか空いていなくて鼻をつまんでしまったそうです。箸が転がっても笑える年頃でした。

 

食事のときは円卓を使って、タコ八ゲームかウインクゲームをよくやっていました。

タコ八ゲームというのは、「いち」と言いながら手を胸に当てます。指先の向いている方(右手だったら左隣、左手だったら右隣)の人が「にい」と言いながらどちらかの手を胸に当てます。「なな」までそのまま続けて、「なな」の次の人は「たこはち」と言いながらシェーのポーズ(片手を頭の上、片手を腹の前に手の平が向かい合うようにする)上の手の指先が指している人が「きゅー」元に戻って胸に手を当て、指先が指している方の人が「いかじゅー」と言って誰でも良いので誰かを指さします。その繰り返しなのですが、単純で結構みんな間違えるからそれが面白い。

ウインクゲームは、最初にクジを引き、鬼を決めます。鬼は自分が鬼だということを気が付かれない様に目があった人にウインクをします。ウインクをされた人は「死んだ」と皆に宣言します。最後の一人まで気が付かれなければ鬼の勝ちです。これは毎回鬼になっても鬼でなくてもドキドキです。皆仲が良く、何をしていても楽しかったなぁ。

 

試合のない日は、練習の合間に観光に行きます。お寺や、動物園にも行ったなぁ。中国のパンダは汚くて白い所がなくて、黒と茶色なのに驚いた。

当時の中国はお金の価値もかなり違っていて、10円もあれば大抵のものは買えてしまうくらい物価が安かったのです。焼き芋を買った選手が、スタッフに、「それいくらで買ったの?」と聞かれ、「○○元」と答えると、「必ず値切らないと日本人はぼったくられるぞ。俺は○元で買ったよ。値切れば値切るほど安くなるぞ。」こんなやりとりがありました。それからは皆値切る値切る。学校のクラスのお土産に、かわいいパンダの置物も安価だったので全員分買う事が出来ました。

 そして私は、安易に路上で売っているアイスを買って食べてしまうのですが、これが後々大変なことになってしまうのでした。