1982年、私が中学2年生の年、十小と学園東小を卒業した中学1年生がたくさん入ってきてくれました。後に代表候補に選ばれるひろちゃん(山本ひろみ)や長年一緒に代表でプレーをすることになる、はぎさん(高萩陽子)らです。練習も必ず私を含めたこの3人は参加するようになり、永沢さんとのマンツーマン練習はなくなりました。

 

前年メンバー5人で試合も出来なかったのが、また試合に出られるように!しかし、喜びももつかの間、たくさんいたメンバーは練習の厳しさについて来られず、あっという間に11人ギリギリになってしまいました。それでも、東京都2部リーグで9戦全勝。読売ベレーザを抑え優勝。1年で1部昇格を決めます。

 

8月には、東西対抗戦が大阪球場外野の特設グラウンドで男子の日本リーグの東西対抗戦の前座として行われました。

今までも、東京と関西では東西対抗戦を行っていて、私も中学一年生の時に1つ上の先輩と2人でメンバーに選ばれ、日帰りで尼崎まで行きましたが、今回は日本女子サッカー連盟が主催。4泊もする上、清水第八のメンバーも参加します。

東京のメンバーは東京駅の銀の鈴に集合して新幹線に乗って大阪へいきました。今回、FC小平からは私ひとり。ドキドキして東京駅まで行きました。銀の鈴ってなんだ?と思っていたら、本当に待ち合わせ場所として、大きな鈴がありました。

他のチームの人も顔はわかるので、すぐに合流できました。大人の人に交じって中学生。新幹線の座席も中学1年生で参加の読売ベレーザあっけと隣に座りました。あっけとはその後長~く一緒に代表でプレーをすることになりますが、この時初めて話をしたのです。「高倉さんはなんで来ないんだろう?きっと選ばれただろうに…」「福島からじゃ遠くて来られなかったんじゃない?」なんて会話もしました。あっけとてるぼう(高倉)と私は、その頃東京の3バカトリオと呼ばれていたらしい。なんでバカ??とも思いますが、バカでも何でも、この2人と一緒にされることは私にとっては嬉しい限りです。

それぞれのチームの話も色々しました。あっけも練習に行くと1人だけ、という日が多く、当時の監督だった相川さんとマンツーマントレーニングをよくやっていると聞き、「私とおんなじ!」あー、私と同じサッカー大好き女子がここにもいた!と思うと嬉しかったですねぇ。

 

新大阪から地下鉄に乗り換えて、宿泊先の旅館へ着きました。その日の午後から練習もありましたが、練習は東西分かれての練習で、しかも清水の人達は西に入っていたので、旅館は一緒でしたが、東京以外の人とはあまり接点がありませんでした。食事も同じ会場で皆食べていましたが、いつも東京組、関西組、清水組と席は自然と分かれて食べていました。

何日目かの朝食の時、あっけと一緒に食堂に入り、いつも座っていた席が埋まっていたので、いつもは第八のメンバーが座っていた席に座りました。ぞろぞろと第八のメンバーが入ってくると、座ろうとした席に私とあっけが座っています。それを見て、ちょっとざわめく第八軍団。居心地の悪さを感じる私。第八の中の2名がちょっと離れた席に移動してくれて無事全員席につく事が出来ました。4人がけのテーブルで私たちの前には日本代表の本田選手と半田選手が座りました。おー、すごい人達と相席出来ちゃった。どんな会話をするのかと興味深々でしたが、2人とも、1言の会話もかわさず黙々と朝食を食べています。そんな静かな中、いきなりあっけはご飯に味噌汁をぶっかけ、ズルズルとすごい音を立てて食べていました(笑)食事の後、緊張気味の私に比べ、「あっけは大物だよ。」と笑って話したことを覚えています。

部屋でも、洗濯の時にも、私とあっけはサッカーボールで遊んでいました。屋上で洗濯を待ちながらリフティングをしてたりね。

 

最終日にナイターで行われた試合の方は、1万人ほどの観客に圧倒されました。ウォーミングアップ中にツーっと鼻から鼻水が出たのかと思いきや、鼻血でした。ベンチに戻って「鼻血が出ちゃった。」というと「なに、そんなに興奮してるの?」と皆大笑い。恥ずかし~。

試合結果は前半0-0としのいだものの、後半西軍が2点を奪って0-2で負けました。「清水が入った方が勝つにきまっているんだから、清水勢を2つに分けて公平にチーム分けすればいいのに」と言う私に、「試合に出られるから清水は西でいいんだよ」とあっけは言いました。なるほど。私もあっけもフル出場でしたっけ。