卒業が近づいてくると、

「中学行ってもサッカー続けるの?」

とよく質問されるようになりました。

それまで、十小では、男子同様4年生以上の各学年で女子チームを編成出来ていたし、

市の大会には、ほとんどの学校から女子チームも出てきていたので、

女子でもサッカーやるのは当たり前の環境でした。

 

 ところが卒業したら、中学生だけのチームはなく、

はじめて女子サッカーがマイナースポーツだという事を知ります。

都心へ行けば、FC神南(ジンナン)という大人と一緒にプレー出来るチームがあるとの事。

東京都のリーグはチキンリーグといって8人制。

チキンリーグという名前は、鳥が餌に群がる様にボールに集まるプレーぶりからついたと後で知りました。

 たった一人で大人のチームに入っていく勇気もなかったのです。

地元の中学校のソフトボール部の練習を毎日通りがかりに見ていて、

中学に行ったらソフトボールに入りたいと思っていました。

母からも「中学行ったらサッカーどうするの?」と聞かれた時、

「サッカーは辞めてソフトボール部に入る。」と答えました。

「今までせっかく続けてきたのに、辞めちゃうのはもったいないんじゃないの?」

「でも一人で知らないチームに入るのはいやだな…しかも大人ばっかりだって言うし

(実際はFC神南には今のなでしこ監督の高倉麻子が中1で入るのでした。

実は私と同い年。

一人で通う勇気のなかった私とちがって、

彼女は1人で入ったのです。

しかも福島から通いで。

 「クラブが無いなら十小でやっていた子たちで作っちゃえば?」

と母が言ったのです。

 作る?今までに無い発想でした。

そんな道もあったかと目からウロコが落ちる思いでした。『新しいチームを作る』というその考えはとても魅力的でした。もう頭の中はその事でいっぱいになりました。

 まずは指導者だ!コーチならやってくれるかもしれない。

コーチは土曜日にならないと会えないので、次の土曜日が待ちきれない思いでした。

そして土曜日、早速コーチに

「チームを作りたいので指導者になって欲しい!」

と懇願しに行ったのです。

「ちょっと考えさせて」

と言った数日後、

近くにあった学園東小学校のコーチをやっていた永沢さんが、

コーチの友達だった事で監督を引き受けてくれたと聞きました。

 指導者の次は選手です。

一緒にサッカーをやっていた同級生、卒業してしまっていた先輩宅を一人一人母と一緒に回り、声をかけていきました。

「女の子だから…サッカーはやらせたくない」

という親も少なくなかったのです。

母がそんな親を説得してくれました。

もちろん、最初に快諾してくれたのはやっこちゃんです。

 そしてすでに中学生だった先輩2人と同級生9人の11人のメンバーを集める事が出来ました。

学園東小の卒業生11名も加わり、

合わせて二十二名。

永沢さん、コーチともう一人コーチのお友達が加わり、3名のスタッフで新しいチームが誕生しました。

このチームが後に日本リーグに参加する新光精工FCになり、その後スポンサーが変わり、シダックスになるのです。)

 それからチーム名、なんていうチーム名が良いかと聞かれ、色々考えました。

良く覚えていませんが横文字の名前をいくつか考えたのですが、

全て却下(笑)。

永沢さんらが決めたFC小平に決定。

小平を有名にしようという志しがありました。

 ユニフォームもどんな色が良いかと聞かれ、デザインまで色々考えましたが、考えたものは全て却下(大笑)。

永沢さんらの決めた、上が黄色でパンツが水色に決定です。

最初に聞いたときは

「エーッ最悪」

と思われる組み合わせでしたが、

ブラジルカラーとの事で、後々、名前もユニフォームも大好きに、愛着を感じられるようになりました。

 

 中学ではソフトボールをやりたいという思いも強く、永沢さんも

「いろいろな事をやってみた方がいい」

と言ってくれたので、

しばらくは中学校の部活をやりながら、サッカーを続けていました。

それが、前述のポートピア国際大会(第1話女ペレエリザベッタビニョット参照)を見たことで、

ソフトボールはきっぱり辞めて、サッカー一筋にしようと踏ん切りがついたのです。