日本が、世界が、景気低迷にあえいで、2年弱が経過した。数値では回復基調というデータも出たりはするが、異常な円高は留まるところを知らない。


これまで他人事のように耳にしてきた日本の「不況」


今、身を以ってこの不況という荒波にぶつかっていこうとしている。

就職活動中の大学生、民間企業の労働者は多くがこの立場にあるだろう。


しかし、政治はこの緊急事態はどこ吹く風。


円高→注意して見ていく(野田財務相)→円高→注意して(ry


この延々のループ。


この期に及んで代表選には小沢が出馬し、ひっかきまわそうとしている。


今、そんなことで振り回されている余裕が、この日本という国にあるのだろうか。


当然ながら、ないだろう。


国の借金は国内総生産の2倍近くに膨らみ、健全な収支の体をまるでなしていない。

日本と言う国の、過去から築いてきた信用、国内の多くの金融機関の持つ、借り手のいない資金の最後の着地点。

国債はそんな、あまりにももろい立場にある。



こんな日本の経済は、はたしてどうすれば立ち直るのか。


単純に考えて、2方向のルートが浮かぶ。


雇用の拡大による、消費者層の拡大を起こし、企業業績の回復、及び物価の健全化。回復した企業は労働者への還元を行い、さらなる消費者の拡大を起こす。


次に、ベーシックインカム制度による、強制的な消費者の拡大。そしてそれによる企業業績の回復。そこから先はルート1と同じ。


下(=雇用)からか、上(=ベーシックインカム)からかという違いであり、企業体力の回復、物価健全化という目的は当然ながら同じである。



ここで、実現可能なのはどちらか。


やはり1ではないか。


2は実際のところ現実に行われている。民主党が行った「子ども手当」がそれである。

なお、子ども手当は扶養控除など、様々な自民党時代から行われながら、今回廃止となった制度を加味すると、国民への負担は増大したという試算を目にしたことがある。


では、子ども手当で景気は回復しただろうか。


これもまた言うまでもない、NOである。


それどころか、財源の確保、マニフェストの履行に困り果てているのが現実の政府の姿である。


2のルートは、あまりに現実味に欠ける、むしろ、先行例が失敗に終わっている。


では、1のルートを行うにはどうすべきか。


何よりも、労働環境の整備が欠かせないだろう。


働ける人間が正当に働き、それに見合った正当な報酬を得て、それを使えるだけの時間も与えられる。そんな当たり前の状態にするのが最も重要ではないか。

「過労死」というケースがある。確かに、テレビなどでの報道は誇張されているところがあるかもしれない。しかし問題はそこではない。


「過労死」が現実に起きている。その事実がまずあってはならないことだと言いたい。


過労死の回避が国の景気回復につながるのか、怪しいかもしれない。


しかし、過労死回避には何が必要か。


「ワークシェアリング」の徹底、及びサービス残業の禁止である。


ワークシェアリングが雇用の拡大、消費者層の増大、消費を行う時間の確保を実現し、サービス残業がなくなることで正当な報酬を得て、それを消費する時間が生まれる。

この2つの実現で、景気回復の理論に経済を置くことが出来る。


サービス残業による人件費の抑制と、正当な報酬を渡すことによる、購買力の拡大がもたらす企業の売り上げの増加。

どちらがよりよいだろうか。前者は完全に縮小均衡のルートに当てはまるのではないか。

それならば、後者による経済規模の増大を目指したほうが、日本の成長につながると考えられる。


数年内に中国にGDPで抜かされようとしている日本に、下へ向かう暇は無いはずであり、縮小を目指す国に将来は感じられない。



サービス残業の禁止による人件費の増大と購買力拡大までのタイムラグを埋める役割として、銀行が活躍できる。余った資金の借り手が生まれる。



以上、時間切れ。

奇跡が生んだこの星で起こるすべて 奇跡以外あり得ないだろう



奇跡って言葉に偶然性が十分に含まれている。


偶然に少しの幸運を加味したところに奇跡って言葉が生まれる気がする。


奇跡=偶然+幸運+希少性


奇跡≒偶然


だったら、ちょっとした僥倖すら奇跡と呼んであげたい。

いや、むしろ呼んだ方がいい。


くだらない偶然を奇跡と呼んであげられる大人になりたい。

そんな寛大な精神を手に入れたい。


偶然を奇跡と呼んであげられる器量のある人間にこそ、奇跡は目を向けてくれる。


せっかく起きた奇跡を偶然と呼んでしまう狭量な人間に何が幸福と言えるだろう。

「やりたいことは何ですか、どのような存在になりたいですか」


何かを考えだすことがやりたい。

詩を書いたり、映画を作ったり、小説を書いたり、歌を歌ったり。


クリエイティブな人間になりたい。


けど、やりたいと思うのはそれが出来ないから。


出来ないから出来るようになりたい。


多分、端っからこういうことが出来る存在だったら、やりたいとは思わなかった気がする。


単なる憧れに過ぎない話。可能性に過ぎない話。


けどこの可能性は限りなく不可能性に囲まれてる。

不可能性を削って、削って、掘って、掘って、その先にようやく可能性が見えてくる。

その可能性をさらに深めて、深めて、ようやくこの憧れは達成される。


つまり限りなく不可能なことに過ぎない。なぜなら、こんなに削って、掘って、深めている時間は事実上ない。


人は岐路に立たされた時、不可能性よりもさらに小さい可能性、可能性よりもさらに小さい「可能」から選択を行うのが通常だと思う。

その可能の大きさに差がある。


だから、人は可能性ではなく、「可能」を広げるように努めていく必要がある。


可能の拡大に必要なことがようは経験である。


その経験を自分はどれだけ積んできただろうか。他者はどれだけ積んできただろうか。


この差に絶望を禁じえない。



人は就活するとき、「可能」から職種を選ぶことになる。

自分はこういう経験を積んだ。それにより「可能」はこのように広がった。そして、以前から持っている「可能」から最も遠い位置にある「可能」を目指す職種とし、「可能の拡大経験」をアピールすることとなる。


なぜ最も遠い位置か。

当然、最もアピールしやすいから。


自分の「可能」はどれだけ広がったろうか。

自分の元々持っていた「可能」はどのくらいのものだったろうか。


やるせなさを禁じえない。



話の論点をさらに強く就活にフォーカスしてみる。


なぜ自分が金融機関、銀行志望か。


ここまでの可能論で説明出来ることに気付いた。


あまり気持ちのいい話ではないが、お金は限りなく「可能」に包まれている。


人々にお金を融資すること=人々に極大の「可能」を提供すること


この、「極限の可能の提供」に価値を置ける人間が金融機関に向いているのではないか。


「可能」が小さい自分は、多大な可能性に囲まれているとも言える。

だからこそ、より大きな「可能」を持つお金に魅かれてしまう。


その魅力源は単純な欲望とは分離した位置にあると思う。


より大きな「可能」を追い求めてしまうことに起因する。


そのより大きな「可能」を扱う金融機関に自分は魅かれてしまうのではないか。


だから、その中でも外資系金融機関に魅かれてしまう。

そこには当然「かっこいい」という単純な憧れが入り乱れていることは否定できない。


しかし、外資系がより大きな「可能」を持つことは見まがうことのない事実と言える。



ここまで「可能」に魅かれる自分がなぜ政治家を目指さないか。

当然、政治家に憧れを持っている。


しかし、この場合、お金の持つ「可能」とは違い、自分の持つ「可能」が政治家に達していないことに起因する。


つまり、人間の選択が「可能」に基づく限り、自分の「可能」の範疇に政治家という選択肢は無いからである。

それはつまり、自分がこれから「可能」を拡大して政治家に到達した場合、選択する「可能性」が生じる。



人間は可能な限り「可能」を広げていかなければならない。