MONUMENT VALLEY というゲームをご存知でしょうか?2014年のゲームデザイン賞など、その独特の世界で評判になった作品です。http://gigazine.net/news/20141230-monument-valley/


このゲームの特徴は、だまし絵や静かな音の世界の中にある「抽象」です。私とチビ(当時5歳)とでこれの「友達トーテム」の章を遊んでいたのですが、主人公の女の子がひょっこりひょうたん島のような海への航海に出る時、この「友達トーテム」は女の子を追って、最後には海に沈んでいきます。ここがなんとも悲しいのですが(あとで再会するのですがそれはこの章ではまだわからないので)5歳のチビはもう大粒の涙をボロボロと・・・ヨメさんには「抽象物に感情移入させないで!スマホゲーム禁止!!」と雷はいただくは、という修羅場の中、「抽象の力って、恐ろしいな」と思ったのが、この時でした。


ヴォリンガーの「抽象と感情移入」は東洋美術と西洋美術の中に抽象概念と感情移入概念を見出し、そうすることで双方のダイレクトな理解を進める、文字通りモニュメントな論文(岩波文庫復刻版にあり)なのですが、この抽象のダイレクトさは、心の奥底まで射す、恐ろしい力を持っています。その意味で、現象学者インガルデン風に言えば、抽象とは「フィクションの層のない」音楽のような存在、といえるでしょう。


この「抽象」の力の恐ろしさを、現代人はもっと認識すべきだ、と考えています。

 武満徹さんの著書で「音、沈黙と測りあえるほどに」(1971)という本があります。武満さんの音楽や人柄が出ている、詩的な本ですが、内容については、この書名がほぼ語っているところに尽きます。

 「音は、沈黙と測りあえるのか?」武満の音楽は、このテーマから始まっているという気もします。

 さて、「音で音を測るには」というタイトルをつけていますが、これは、「音と言葉」という世界からの援用です。フルトヴェングラーの著書にも同名の論文講演集がありますし、ブルーノ・ワルターの「音楽と演奏」や、近くでは竹本住大夫さんのエッセイ「文楽のこころを語る」(2009文春文庫)も、これにあたるでしょう。


 ここで文楽(人形浄瑠璃)を出したのは、いくつか訳があります。順に追ってお話したいと思います。
個人的な思い出話もありますが、それはさておき。
 
 まず、文楽は「語り」の芸事ですが、三味線の合いの手に乗って大夫が太い声で歌います。フシ、とかオクリ、という、西洋で言うとカデンツやフィグーレンレーレにあたる、節回しによる音楽表現と、劇の語りへの場面転換の節目に歌われます。まさに「フシ」なわけです。「この場面でしか歌われない」とか「この人形にだけ使われる」というフシがあるのですが、これはフィグーレンレーレ同様、かなり通な玄人の世界といえるでしょう。
 シロウトの私は、たとえば「曽根崎心中」の「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした、という筋書きには「借金くらい相手を張り倒してでもとり返してこんかい!」と憤る方なのですが、心中の非現実的な世界の美しさの是非はともかく、その音楽と語り、
そして人形が、ものすごい緊張感で(なにせ心中する二人の内的世界を描いているのです)観客に迫ってきます。これこそ、音で、音を測る、人形や空間に比する音・声・楽器のやりとりこそ、音による真剣勝負であると思っています。
 これは実は歌曲の歌と伴奏、室内楽や合唱の各パート同士の関係にも同じものがあります。めいめい、自分の音を出しながら、相手の音と共鳴する空間を作る。これこそ、音で音を測る瞬間だと思っています。

 え、思い出話の方?それはまた、続きが書けたらにしますね。