日曜日の朝イチのギンレイホールは、昔から好きだ。人気まばらな飯田橋の街に、映画を観にくる人で席が埋まっていくのは、気持ちが良いものだ。そうすると、映画の出来がどうあれ、ランクアップしてしまう。
女性の権利に先進的だと思っていたイギリスでも、一世紀前までは、この作品のように、女性は理不尽な扱いを受けていた。差別というのは、する方とされる方では、大概、する方の立場が圧倒的に強く、される方は虐げられる事になる。しかも、法律を作る方と守る方では、その差別を解消することは、強硬な態度を取らざるを得ない。
主人公モードの人生も、鎖で繋がれていないが、まるで投獄されているような生活だ。何百年に渡る男性の女性蔑視は、男性の目から見ても、深い憤りを感じる。生まれた時点で、女性というだけで人生が決まってしまう世の中は、あってはならないと思う。最後のタイトルバックに婦人参政権実施国が年代順に並べられる。日本は敗戦が契機だから、降ってきたような権利だった。最後に出てきた国は、2015年のサウジアラビアだった。まだ、男女平等の運動は続く。人類の半分は、女性だ。
物語を観ていて、徐々に、急進的な運動と穏健的な運度に分かれてくる。それは、活動しても、すんなりとは事が進まないからだ。この急進的な動きは、今なら、「テロ」と呼ばれるだろう。では今のテロと何が違うのか?きっと方法論の違いはあれ、差はあまりないだろう。恐らく、今のテロも、理不尽な事に耐えかねて、事件を起こしているはずだ。そうなれば、その理不尽な問題を解決しない限り、その戦いは永遠に続く。
劇中でモードが、確信を持って吐くセリフ。「必ず勝つ。人類の半分は女性だから」それに対してスティード警部は反論する言葉もない。良心、正論は、武力でなくても、勝てるのではないかと、ふと感じた。