俳優をやめてから、今年で15年目らしい。

2004年7月23日に俳優業を「休業」していたので、それから。

リネマガジンの企画である方にインタビューしていて生々しく思い出したのは、

自分が俳優をやめた時のこと、

そしてやめてからの心の揺らぎ、

払った代償のこと。

ほかにも何か、本当はあったのかもしれないがまずはそれくらい。

 

「もう俳優をやめます」と師匠に言いに行ったのは、

明治座の舞台が終わってしばらくしてから、だから7月はじめ。

人生であれほど唇が渇き脚が重く指が震えてた自分はないし、

人生であれほど遠かった200メートルも、あんなに苦しかった家路もなかった。

 

大好きだった、僕を愛してくれた師匠に、「俳優をやめます」と告げた。

引き止められないのは分かってたし、

とても悲しませるのも分かってた。

師匠は、おれは辞められないなぁ、役者すっごい好きだから、とポツリと。

横顔で、だった。

 

役者になりたいんです、本気で好きなんですと、師匠のことが好きなんですと勝手に押しかけ、弟子にしてもらい、一緒に散歩しパチンコをし、殺陣を教えてもらい、テレビの仕事をもらい、一緒に脚本を書き、バカな悪戯もして、深夜にアイスクリームも食べ、そしたら時間が流れて、いつのまにか変質し、他の世界の扉が気になり、

芝居の話をしなくなり、目に力がなくなり、そしてやめてしまった、のは全部僕だった。

 

 

そのあと僕は東京を出て大阪に戻ってきて。

旅行に出ようとお金をためていた時期。

その間何回か師匠から着信があった。

友達と守口の居酒屋でご飯食べている時、家で調べ物してる時、あとお正月も。

全部僕は電話に出ることはできず、硬直してディスプレイを眺めてるだけだった。

電話に出たら何を言われるか、その言葉を聞いてしまえば自分がどうなるかも

分かっていて、だから体を固くして掌を結び心の揺れを殺してるしかなくて。

 

大阪では。

習慣のようにウォッチしていたテレビドラマも全く見なくなった。

俳優仲間とは連絡をとることもほとんどなかった。

10月に「ヤンキー母校に帰る」の再放送が始まっても見なかった。

みんなの活躍も聞きたくなかったし、

自分が俳優をやめたことも、ほとんど言わなかった。

俳優時代の仲間たちをほぼこの時期に失ってる。

心が揺れて暴れて溢れ出し零れ落ち、

自分が東京に帰らないように抑えておくのに必死だった。

そして約1年後の2005年7月20日に、長い長い旅行にやっと出た。

 

1年半の旅行の後、

僕は日本に帰ってきてリネアストリアを始めて。

とても忙しい事を言い訳にして、

やっぱり日本のテレビドラマなんかは見れなかった。

師匠とももちろん音信不通のまま2004年の夏から10年が過ぎた。

 

2014年の、あれは10月。

リネアストリアに一通のメールが届いた。

それは昔の僕の所属事務所の元マネージャーさんからのメールで。

ウィッグを購入したら村瀬の名前があったからびっくりしたと。

頑張っているじゃない、一度連絡しなよと、そう。

そんなこんなで、2014年11月、師匠に会った。

10年ぶりと感じられないほど、あの時のままで

優しくて大きくて、1時間後にはこんな脚本書こうと

僕に構想を話し始めていた。

 

2019年になって。

昔の僕の出演作のビデオ(VHS)をDVDに焼いてもらおうとしている。

なんと僕の上の子供(女の子)が将来女優になりたいそうだ。

マジマジョピュアーズという実写番組を一緒に見ていて、

「パパは邪魔邪魔大帝(遠藤憲一さん)と共演したことあるよ」と言っても、

信じてもらえない。

俳優をやめてから、

自分の出演作を見るなんて絶対にできなかった僕だったけれど、

もう15年が経って。

テレビドラマを見ない習慣は15年間続いているけれど、

でも僕の中にはもう、揺れるものも暴れだすものもすっかりなっくなってしまっていて。

 

だから今は昔の自分の作品を見るのが、少し楽しみでもある。