逃走
あれはなんだったのだろう。
鳥の鳴き声だったのか、時計のアラームだったか、それとも僕が発した声だったのかもしれない。あるいは何も聞かなかったのかもしれない。
ふと我に返ると、そこに「僕」がいた。
カイラスがそこにあった。恐ろしい顔をしていた。
つぶれた足のマメが痛いと、感じ始めた。
川の水が冷たいと、感じ始めた。
死ぬかもしれないと、そしてそれが怖いと、そう感じた。
逃げた。
何度も躓きながら、崩れる崖を転げ落ちながら、
直感的に川沿いに下ればゴンパに戻れると、
逃げた。カイラスに背を向けて。
直面
自分のテントに戻って。
彼女に会いたくて、声が聞きたくて仕方がなかった。
家族や友人にも会いたかった。
腹が減ってどうしようもなかった。
インスタントラーメンを作って食べて、腹は一杯なのに何かまだ食べたかった。
シュークリーム、プリン、柿の種、うなぎ丼、キンパプ、すき焼き、マクドナルド、、、食べたくて食べたくて、眠れなかった。
逃げて来たのだ、そう思った。
あれほど焦がれ続けたカイラスから、
あれほど求め続けた、非俗な世界から、
僕は逃げて来たのだ。
カイラスは迎えてくれたろう、
しかし直前で僕が、背を向けた。
直面。
カイラス北壁の真っ正面に張ったテントの中で、
テントのジッパーを閉めてカイラスに背を向けて、
そして直面したこと。
僕のついて来た嘘、
僕の犯して来た罪、
数々の裏切り、
死にたいとさえ思っていたけれど、殺したいとさえ思ったけれど、
それでも、そんなどす黒い自分を、僕は捨てきれないのだという事実。
そんな自分でも、こんな自分さえ、僕は愛している。
そしてそれらを抱えて行きて行かなくてはならない。
人を憎みながら、嫉妬しながら、嘘をつきながら、裏切りながら、
でも人を愛しながら、時に素直になりながら、約束を守りながら、誰かを守りながら。
きれいな色は出せない。
純にはなれない。
でも、「こんな」で、これからも行きてゆこう。
扉
僕が見た、あのカイラス北壁を、「世界で最も美しい光景」と名付けよう。
きっとあの僕が見たものは、それに値する。
だから、もう探さない。
あれ以上のものは、もうないと、ひとつの区切りをつけた。
でないと、また「扉」を開け続ける事になる。
一生、「より美しいもの」を探して旅を続けてしまう。
終わりのない、きりのない旅になってしまう。
帰るから。僕は。
あの誰かのように、僕はならない。
世界で最も美しい光景を、僕は見ました。
だからこれ以上、
探し続けることは、
扉を開け続ける事は、
もうしないのです。