御坊岩内簡易局から数百メートルの場所にある岩内1号墳。

横穴式石室を持ち、墳丘に沿って北東西の3辺に周濠をめくらせた最長19.3メートルの方墳で、7世紀中頃以降に造営された、県内でも数少ない終末期古墳のひとつ。
( 案内板を参照 )
坂を登ると石室の入口が見えてきます。

戦後まもなく発見された。木棺に塗られた漆の破片や銀装太刀、六花形の鉄製棺飾金具などが石室内から発見され、昭和54年度(1979)の調査では、版築(粘土を突き固める)という技法で墳丘の盛り土が造営されていることや、被葬者を安置した床面が7世紀後半頃に作り直されていることがわかった。

(その時発見された銀線蛭巻太刀)

全国的に珍しい漆塗りの装飾が施されているのと、副葬品、造営の技法(版築)など、大変身分の高い人物と考えられていることから候補者のひとりとして…斉明四年(658)蘇我赤兄の謀略、あるいは中大兄皇子(天智天皇)の陰謀によって、紀伊国で処刑された有馬皇子があげられている。

階段を登ると柵越しに石室内を見る事が出来ます。

(中には入れない)
万葉集に残る有馬皇子の歌は…牟婁温湯(白浜温泉)に滞在中の中大兄皇子の元に謀反の罪で送られる際に詠んだものとされる。
〈家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る〉
家では器に盛って食べる食事も、(罪人として送られる)旅の途中である私の物は椎の葉に盛られている。
〈磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまたかへり見ん〉
磐代の浜の松を引き結んでおき、もしも罪が赦されたならこの磐代でまたこの松を見よう。
私がこの歌を学んだのは、19歳の頃だったと思うのだけど、なんと悲しい歌だろうと今も心に深く残っています。
和歌山県日高郡みなべ町の岩代地区には…有馬皇子の歌碑が建てられいます。
〈岩内1号墳の石室入口前にあったノート〉

有馬皇子ファンが何か書き残されているか…気になりましたし、私も何か書こうか…と迷いましたが、息子が車で待っていたので…合掌して古墳を後にしました。
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北京冬季五輪…男子シングルSP…朝からずっと見ていたけれど…羽生結弦くんのアクシデントにビックリして( しまったかからかどうかはわからないが )…なんか熱っぽいので検温したら37.2度。洗濯物を干しにベランダに出てからだから…花粉症状だと思うけど…(><)
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