「シャンシャンシャンシャン、
 と音がする。」と息子が言った。

夜9時過ぎに自宅マンションの
4階で、エレベーターを降りると、 
そこにテニス帰りの息子が立っていた。
         
「どうしたん?ずっとここにおるん?」
と、思わず尋ねた。

「4階を歩いてたら、
 お母さんの音が 聞こえたから。」

1階を歩いていた私の歩く音を 
4階を歩いていた息子が、
聞き分けて、私だと思ったそうだ。

「ぼく、すごいやろ。」
「すごいなぁ。なんでわかったん?」
「ほら、これ。」
と、私の携帯ケースにつけている3、4個の鍵を指差した。

シャンシャンシャンシャン…

そんな感じだそうだ。



そういえば、と振り返る。

私も幼い頃、母親が、
夜8時頃に仕事から戻ってきていた。

話したいことが毎日、
山のようにあった私は、
母の帰りを
心待ちにしていた。

あるとき、気づいた。

トコリンベッチャリー(当時の飼い犬)が、
毎日夜8時頃になると、
突然、やさしく鳴き出す。

1、2分すると、決まって
母親の車が戻ってくるのだ。

さすが、犬。
耳がいいのだ。見えなくても、
遠くの音もききわけている。

そのことに気づいた私は、
翌日から、夜8時になると外に出て、
トコリンベッチャリーのそばに行き、
母親が、戻ってくるのを
いち早くキャッチし、
遠くの方に見える
(田畑に囲まれていたので見える)
車のライトを母親の車だと確信して
心はずませていた。

息子が、自然と私の音を聞き分ける
のも、そんな当時の私のおかれた
環境に似ているからなのかもしれない。

ま、私の場合、聞き分けているのは、
トコリンベッチャリーなのだが。

先日、
「今日は、8時に帰るわ。」
と、宣言したにもかかわらず、
8時20分にまだ淀屋橋駅にいた私。
息子の電話の声は、
泣いてるんだか、
怒ってるんだか、とりあえず、
ぶちッ、と切られた。

これも、私の経験とかぶる。
いつも待たされている人は、
実は、待つことになれている
わけではない。
ある程度の時間にめどをつけて、
自分に言い聞かせて待っている。
だから、そこまでは、平気でいられる。
が、
そこに、まさかのそれも大幅の
「めど越え」が起こると、
冷静さを失うことになる。

この冷静さを失った経験が
私は何度もあるのだ。

その当時のことを
私は、とても客観的に
「お母さんに待たされる
   かわいそうな女の子」
と、捉えて、
その女の子を哀れむことが
ときどきある。

ふとしたときに思い出すのだ。
今回のように。

私は、自分の子どもに
そんな経験だけはさせたくないと
思っていた。

子育てで、
そこにはこだわったつもりだった。

それなのに、
あの「かわいそうな女の子」と
同じ経験を
息子にさせているのではないか?と
今回の
シャンシャンシャンシャンで、
気づいてしまった。

と同時に、当時の母親の気持ちにも
気づいてしまった。
決して、
待たせたいわけではない。
早く帰ってあげたい。

…ああ、そういうことか。

このままでは、
「かわいそうなお母さん」
「かわいそうな息子」になってしまう。

私もよくよく考えて選んだ道。
「かわいそう」で、くくられている
場合ではないのだ。

今、私のできることは、
息子に めど越え を
経験させないことだ。

毎日の曖昧な帰宅時間を、
息子のめどの範囲におさめることが、
息子を「待つ人」にする。
いや、その範囲であれば、
好きなことをして、
もぉ、待っていないのかもしれない。

その めどの範囲 を越えると
「待たされる人」となって、
かわいそうな感じになる。

昨日は、めどの範囲に帰宅。
息子が、玄関にうれしそうにでてきて、
「ぼく、靴揃えて、洗濯物を
 とりこんだよ。」と教えてくれた。

この笑顔を奪わないように、
私も「待たせる人」にならないように
努めようと思った。

今日、職場に新しく自転車を置いた。
携帯ケースに鍵を一つをつけ加えた。
もっと息子に
聞こえるようになっただろうか、
と思いながら(笑)。