命日 | 私の毎日 

私の毎日 

日々の自分の心と向きあおうと始めてみました。
なんでもない平凡な生活の中で、ちっちゃな幸せを見つけ、
閉じ込めた傷は手放していけるような・・・
そんな生活が送れたら・・・。人生上々。

今日は53歳でこの世を去った私の母の命日だ。


母は、私が中学3年生の時にガンを患った。


島の病院で放射線治療を受けていた。


再発の危険が高かったので、自分でいろいろ調べてはいいということを実践していた。


母子家庭だったため、そんな体を抱えてでも、生活のために


母は働かなければならない存在だった。



その頃、人づてに東京の病院のワクチンの存在を知り、


その治療に専念していた母だったが・・・


亡くなる年の春ぐらいから体調を崩し・・・


どこの病院でも原因がわからず、最後には「芝居をしている」とまで言われ・・・



淡路島から東京まで、辛い体で上京し・・・


付き添うという私の申し出に


「一人でこれないようなら生きて帰れないと先生に言われたから」と頑なに拒否し・・・


そして東京駅で倒れた。


大きな病院に運んでもらえばよかったものを・・・


ワクチンを製造している病院に運んでもらい・・・


そこで、安楽死という選択の下、生涯を閉じた。


大田区にある、こぎたない、小さな小さな病院だった。


当時、大阪に住んでいた私は生後半年の長男を抱え、


母の姉の伯母と一緒に飛行機で羽田に向かい・・・


羽田に着いて、タクシーを探し始めた時・・・


「もうだめだ。間に合わない。」


そう直感した。


姉が先生に注射を申しでた時間と同じ時刻だった。


病院に着いて、一番に孫を見せてあげようと、長男を前向き抱いて


階段を一気に駆け上がった私が見たのは、すでに冷たくなった母の亡骸だった。


とっさに長男を落としそうになったのを、姉と姉の友人が支えた。



そこからきびすを返して、私は淡路島に戻ることになった。


葬儀の準備だ。


姉は伯母とともに、亡骸を島までつれて帰るのに同乗することになった。


母が亡くなる半年前に祖母が亡くなって・・・


初盆が終わったばかりの実家には、本来なら片付けなければいけないものが


そのままで放置されていた。(お盆のちょうちんやお膳の容器)


体調も思わしくなかったから仕方ないってあきらめたが・・・


ベランダにあった、あれほど大切に育ててきた植木たちは


全て根こそぎ抜かれていて、捨てられていた。


大事なものがキチンと並べてあり、整理整頓されていた。



母は・・・帰ってこれないって気づいていたんだ。


覚悟で出かけて行ったんだ。



そう思うと、体の奥から涙がこみあげてきた。



安楽死も・・・ずいぶんしてから姉から聞いた。


母は心臓が機能しなくなり、辛い呼吸に耐えかねていたらしい。


「○○(我が家の長男)がもうすぐ来るから頑張ろう」って姉が励ましたら


「○○を見たら、もっと生きていたいと思う。

 

 お母ちゃんはもういっぱい頑張ってきた。


 お願いだから逝かせてくれ・・・」


母はそう懇願して、呼吸困難になっていったらしい。


目の前で苦しむ母を見ていて、姉も苦しかったことだろう。


安楽死の選択を選んだことも、辛かっただろう。


亡くなった母を荼毘に付した時、骨はスカスカでボロボロ。


心臓のあたりにコールタールのような、黒い塊が残っていた。


これが母を苦しめた原因だったんだろう。



母の年齢に自分もあと何年後かには追いついてしまう。


母は女手一つで、姉と私と自分の母親を養っていた。


私にとってはすごくいい母親ではなかった。


むしろ、今で言う、育児放棄に近い形で、自分の感情をよく子供にぶつける人だった。


それでも、こんな年になっても・・・


なにか壁にぶち当たったり、悲しみの淵に立たされたときは母を思う。




あの暑い夏の一日を、夏の終わりに思い出さずにはいられない。